Archive for 6月, 2008


boys on the side

 夜、勤めていたクラブで選曲が時代に合わないとクビになった歌手、ジェーンは組んでいたパートナーと離れロスアンゼルスに新たな生活を求めて旅に出ようとする。一方、ニューヨークで不動産の仲買人をしていたロビンも生活に嫌気が差し、同乗者を募ってサンディエゴに旅立とうとしていた。応募したもののジェーンはカーペンターをこよなく愛するロビンが自分と合わないと辞退するがロビンは一方的にジェーンを誘ってサンディエゴに向かった。途中、ジェーンは友人のホリーを訪ねるが、同棲中の恋人ニックと県下の真っ最中で、彼から離れたほうがいいと察したふたりはホリーも連れて旅に出ることに決めた。3人は旅を続けて行くうちにお互いの秘密を知るようになる。ジェーンはレズビアンで、恋人に振られたばかりであり、ロビンはHIVの感染者だった。ホリーは妊娠2カ月の身だった。そんな中、ホリーの恋人が死んだという事実を新聞の見出しで知り、自分たちが殺したのだと誤解してしまう。またロビンもエイズの感染症による肺炎で倒れてしまう。ホリーは殺人の容疑で、警察から手配される。いったん退院したロビンを連れて、3人でホリーとジェーンの知り合いのいるバーに行くと、そこへ警官がやって来くる。慌てふためくロビンとジェーンだったが、彼はホリーの別の恋人だった。ジェーンはロビンを慰めるため、ロビンに恋している男に働きかけるが、エイズを劣等感に感じているロビンは憐れみをかけられたと思いジェーンと決別してしまう。ホリーも恋人の警官に連れられる。ホリーは半年後に仮釈放程度の刑を受けるにとどまった。裁判の途中、証言台に立ったロビンは、その緊張感から容体が悪化し再び入院することに。ロビンは病床でジェーンに、10歳のころ、自分もある女性を愛していた事を告白する。やがてホリーの子供も生まれ、パーティが開かれる。ジェーンたちはロビンの好きなカーペンターズの歌を歌い、車椅子でロビンがそれを聞いていた。やがてロビンは病魔に勝てず、ジェーンはホリーとそこを出発する日、車椅子を見つめながら感傷に浸っていた。
 もう80歳を超える監督のハーバート・ロスは『チップス先生さようなら』『グッバイガール』『愛と喝采の日々』『カリフォルニア・スィート』『フットルース』など数々の名作を撮り続けてきた名監督。まだアカデミー賞の監督賞は獲得していない『愛と喝采の日々』でノミネートされたが、作品賞は獲得するものの監督賞は獲れなかった。もう高齢で、この1995年の『ボーイス・オン・ザ・サイド』以来新作の声を聞いていない。以前の強く作品にひきこむパワーは失い、数作前の『マグノリアの花たち』あたりから、非常に細やかな心の機微を描くようになってきたように思う。この作品でも大作の感じはないが、素晴らしい人間ドラマになっていると思う。新作を撮れるパワーは年齢的にないのかもしれない。3人の女優はあえて評する必要もないゴージャスなキャスト、レズビアンのシンガーのジェーンにウーピー・ゴールドバーグ、HIV患者のロビンにメアリー・ルイーズ・パーカー、破天荒なセックス依存者ホリーにドリュイ・バリモアが扮している。3人のバランスが非常によく、誰かが突出して映画を纏めている感じはない。アンサンブルがよい。
 人生に失速した3人の女性を旅を通して友情を育んで行く姿を描いたロードムービーだ。友情を描いた映画は数多くある。しかし、この特殊なシチュエーションで接するはずのないような性格三人三様の3人が一旦はバラバラになるが、最終的に共通点を見出し永遠の友情に包まれていく過程は実に見事だ、美しい。
 冒頭からしばらく、これは劣等感を面白おかしく挙げ連ねた不愉快なコメディかと思った。ところが、ロビンが倒れるあたりからぐっと辛辣なドラマにグラデーションしていく。例えば、車の中でジェーンのヘッドフォンをロビンが借りていいかどうか尋ねるシーンで断りもなくヘッドフォンをウェットティッシュで拭き始める。ブラックでドレッドヘアのジェーンを毛嫌いしているかのような潔癖症のロビンを演出するようなシーン、それを怪訝な顔で見つめるジェーン、しかし、後になって考えるとエイズである自分を移さないように他人に気配りしているエピソードだと気づく。ジェーンのロビンを思ってしたことがロビンの自尊心を気づつけるようなことになる直接的なシーンと対照的な演出だ。3人ともはまり役、ここでウーピー・ゴールドバーグが名演ぶりを披露しすぎるとこの作品は壊れてしまう。抑えた演技が好感がもてた。車椅子のロビンと囁くようにカーペンターズを口ずさむシーン、ここで『天使にラブ・ソングを』のように熱唱されちゃまずいもの。このささやくようなトーンがラストにロビンを回想するシーンに繋がると涙がとめどなくあふれてくる。ただ、ロビンにも愛した女性がいたという告白は蛇足だったかな。
 これはもっと評価されてしかるべき映画だと思う。

◎作品データ◎
『ボーイズ・オン・ザ・サイド』
原題:Boys on the Side 1995年アメリカ映画/上映時間:1時間57分/ワーナーブラザーズ映画配給
監督:ハーバート・ロス/脚本:ドン・ルース/製作総指揮:ドン・ルース, パトリシア・カーラン/製作:ハーバート・ロス,アーノン・ミルチャン, スティーブンルーサー/音楽:デイビッド・ニューマン/撮影:ドナルド・ソーリン
出演:ウーピー・ゴールドバーグ, メアリー・ルイーズ・パーカー, ドリュー・バリモア, マシュー・マコノヒー, アニタ・ジレット

recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

whale rider

 舞台はニュージーランドの小さな浜辺の村。そこには1千年前から、遠くハワイキを出発した勇者パイケアが、苦しい航海中、クジラに助けられ導かれて、この村にたどり着いたという伝説があった。そのパイケアを先祖に持つマオリ族は、代々男を族長として続いてきた。現在の族長の長男ポロランギは男女の双子を授かった。しかし、不幸にも男の子と母親は出産時に命を落とし、女の赤ちゃんが1人生き残った。彼女の名はパイケア。伝説の勇者と同じ名前がつけられた。悲しみに打ちひしがれた父親は村を去り、パイケアは祖父母のもとで育てられる。後継者の誕生を心待ちにしていた祖父のコロは、生存したのが女の子であったという落胆から、パイケアの存在を受け入れず冷たく当たる。祖母のフラワーズは、愛情を必要とする1人の子供としてパイケアを見守っていく。パイケアが育つにつれ、やがてコロ自身も孫を愛することを学び始める。彼女が12歳になった時、ドイツから有名なアーティストとなったポロランギが戻ってきた。コロは、ポロランギが自分の後継者となることを強く望んでいた。後継者は息子しかいないと思っていたコロは、新たな後継者探しを急いだ。パイケアの出生が諸悪の根源だと確信する彼は、村中の12歳となる少年たちを集会所に集め、部族の伝説や伝承歌、闘いの技術などの伝承を開始した。女であるという理由でその訓練に参加すら許されないパイケアは諦めきれず、集会所の陰からコロの教えを学ぼうとするが、集会所は神聖な場所だから女は汚すと言って追い出されてしまう。パイケアは、女である自分の存在を恨めしく思いはじめる。しかし、祖母のアドバイスを受け、叔父のラウィリから秘密の特訓を受け始めた。猛特訓を終えた少年たちに、ボートで沖合に出たコロは、代々族長に伝わるクジラの歯の首飾りを海に投げ入れ、拾って来た者を次の族長とすると彼らに告げた。少年たちは素早く海に飛び込むが、誰も見つけてくることは出来なかった。族長選びが失敗に終わり気を落とし寝込む祖父に、パイケアが首飾りを簡単に探しだした。だが、首飾りはコロの元には返らず祖母の手に託された。翌日、コロの枕元には学芸会の招待状が。パイケアは学芸会で、スピーチコンテストで1位を獲得した、コロに捧げる詩の発表をしたのだった。伝説の勇者パイケアが祖父と同じく孤独に苛まれた時、力を与えてくれるよう祖先に祈ったと伝わる詩を捧げたかったパイケアは涙ながらにスピーチを披露した。しかし、そこにコロの姿はなかった。その頃、まるでパイケアの悲しい運命と呼応するかのように、海の底からクジラの一群が浜に打ち上げられた。この出来事を一族の終末の暗示であると信じ込むコロのもと、クジラたちを海に返そうと村中の者が力を合わせるが、何十トンもあるクジラはぴくりともせず、彼らを海の方に向かせることすらできなかった。その時、大好きな祖父母たちと一族を救うため、パイケアがひとり、ゆっくりとクジラに近づいていった。
 青い海と空が広がる豊かな大自然を誇る楽園の島ニュージーランド。『ロード・オブ・ザ・リング』の舞台としても有名な南国でこの映画は生まれた。マオリ族の伝統とそれに翻弄され離れ離れになっていく家族の絆。自分が女に生まれてきたことに悩み、孤独と戦いながら成長した少女パイケアの元に、クジラたちが次々と姿を現し始める。伝説の勇者の魂を受け継ぐものとして、不思議な運命に立ち向かい、奇跡を起こしていく少女のルーツをめぐる愛と勇気の物語。
 監督はニュージーランド生まれのマオリ人であるニキ・カーロ。監督は語る。「この作品の主なテーマはリーダーシップで、1人の少女という形にそれが結実していく話」だと。
 頑なに伝統に縛られ、それを守り通すことが一族のためと信じきる一族の長と、女性というだけで拒まれてしまうひたむきに一族のことを大切に思う少女の対比が哀しい。女性であれ、男性であれ、人間であれ、何であれ、何かに生まれてきたことは誰のせいでもない。なんともいまだにこんなことがるのかと思わせるような不平等で差別意的な伝統だ。マオリ族の伝統芸能なんて全く知らなかったから、独特で猛々しい奇抜さが異様にさえ見えてくる。衝撃的な伝統だった。だが、女性を排除する伝統は日本の天皇制を彷彿とさせる気がした。映画が始まって冒頭の出産シーンが、古い伝統に繋がってゆくなどと思ってもいないで映画を観ていた。主人公を演じるケイシャ・キャッスル・ヒューズは全くの新人だが、その存在感は素晴らしい。アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたが、主演女優賞のカテゴリーではノミネート最年少だ。ラストシーンは余分なセリフなどないまま深い感動をもたらす。ニュージーランドに行ってみたくなった。なんて単純。
 クジラだけが知っていたのだ。少女が救世主であることを。

◎作品データ◎
『クジラ島の少女』
原題:Whale Riders
2002年ニュージーランド・ドイツ合作映画/上映時間:1時間42分/日本ヘラルド映画配給
監督・脚本:ニキ・カーロ/原作:ウィティ・イヒマイラ/製作総指揮:ビル・ギャビン, リンダ・ゴールドスタイン・ノウルトン/製作:ジョン・バーネット, フランク・ヒューブナー, ティム・サンダース/音楽:リサ・ジェラード/撮影:レオン・ナービー
出演:ケイシャ・キャッスル・ヒューズ, ラウリ・バラテーン, ヴィッキー・ホートン, クリフ・カーティス, グラント・ロア

recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆

the squid and the whele

 1986年、ブルックリンのバースローブ。16歳の兄ウォルトと12歳の弟フランクの両親は共に作家。しかし父バーナードはかつての栄光にこだわり現在の長いスランプを持て余していた。母ジョーンはニューヨーカー誌で華々しいデビューを控えた新進作家。そんなある日、兄弟は両親から離婚することを告げられ、共同の監護のもと、父の家と母の家を行ったり来たりの生活が始まる。やがて、弟はストレスから学校で奇行を繰り返すようになり、冷静に受け止めていたかに思われた兄もまた学校で問題を引き起こしてしまった。
 『ライフ・アクアティック』の脚本で注目を集めたノア・バームバック監督が、自身の少年時代を投影して描きあげた自叙伝的なストーリー。多感な年頃の2人の兄弟が、両親の離婚に直面して、心の葛藤を経て成長していく姿を描いている。リアリティにあふれる脚本は絶賛され、アカデミー脚本賞ノミネートをはじめ全米批評家協会賞、サンダンス映画祭、NY批評家協会賞で脚本賞を受賞した。2男役オーウェン・クラインはケヴィン・クラインの息子というのはちょっとしたトリビアです。なかなか演技派。夫婦と子供を演じた4人はもちろん、兄弟のテニスコーチに扮したウィリアム・ボールドウィンもなかなかいいし、その教え子に扮したアンナ・パキンも『ピアノ・レッスン』のあどけなさより色っぽさが増してそこそこ。
 監督のノア・バームバックはたぶん初監督作品だと思う。不器用なおかしさに包まれた家族の物語で、笑えるけど切ない。登場人物がどこかみな屈折していて一挙手一投足をコミカルに表現しているが、その実とてもリアル。コメディからドラマへと引き込んでいく感じがいい。たぶんそれは監督の自伝的要素が強いからだと思う。両親の離婚は監督自身のエピソードだし、そこに思い入れが込められている感じがする。昨今めっきり寡作になったウディ・アレンの後継者とも騒がれているが、シニカルな台詞は確かにウディ・アレンに通ずるところがある。芸術に造詣の深いインテリな父親はとっても独りよがりで呆れる。しかし、そこに存在するリアルさは、嫌いになりきれない。この映画では、父に加担する兄と母の方を慕う弟が設定として面白い。正直、親のエゴで行ったり来たりさせられる子供はたまったもんではないと思う。子供の側に立つ余裕のない親なのだ。そして子供も子供なりにいらだちを感じながらも妥協しながら日々を生きてゆく。両親に対する不安感に情緒不安定になるのはあまりに共感できるから、子供たちの破天荒ぶりも失敗も反抗も笑えるが胸を締め付ける登場人物がすべて欠点があり、それでいて共感できるから愛おしくなってしまう。タイトルの「イカとクジラ」は兄の方が父の肩を持ち、浮気を繰り返す母には反発しているものの、カウンセリングを受けて、母との思い出を語った「イカとクジラ」のことが言葉になるシーンに由来している。このシーンは印象に深く残った。母と行った自然史博物館にあったダイオウイカとマッコウクジラが戦っている巨大模型が怖くて指と指の間からしかちゃんと見ることができなかったことを、素直に、淡々と思い出しながら語るのだ。クールにふるまっているけれど、本当は傷だらけ。でも、今はもう、イカとクジラをちゃんと見つめることができるようになったということだと思う。そして、格闘する「イかとクジラ」に両親の格闘が例えられてもいるのだろう。
 映像が手持ちカメラで見る者の目線と重なっているのが余計に自分の周りに起こっていそうな感覚になる。たぶんその映像に乗っかる等身大の心理を語る脚本が見事なんだろうと思う。

◎作品データ◎
『イカとクジラ』
原題:The Squid and the Whale
2005年アメリカ映画/上映時間:1時間21分/ソニー・ピクチャーズ・エンターテインメント配給
監督・脚本:ノア・バームバック/製作:ウェス・アンダーソン, チャーリー・コーウィン, クララ・マルコヴィッチ, ピーター・ニューマン/音楽:ブリッダ・フィリップス, ディーン・ウェアハム/撮影:ロバート・イエーマン
出演:ジェフ・ブリッジス, ローラ・リニー, ジェシー・アイゼンバーグ, オーウェン・クライン, ウィリアム・ボールドウィン

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

mozart and the whale

 数字に関して天才的な才能を持ち、他のことには気がいかなくなるドナルドはタクシー運転手などして働くが、ミスばかりして長続きしない。それもそのはず彼はアスペルガー症候群という障害を抱え普通の日常生活を送れないのだった。しかし、同じような精神障害を持つ人たちのために定期的に集会を持ちリーダー的役割をはたしていた。少しでも社会に適応していこうとする若者が集まった。そこに新しいメンバーが入ってきた。人の言うことそのまま解釈してしまう金属音に弱い美容師のイザベルだった。ドナルドは次第にイザベルに恋心を抱き、イザベルもドなる度に好意を持ちは始めた。ふたりは家を借りペットたちと過ごす毎日。しかし、普通でありたいと願うドナルドと普通ではない自分を過剰に意識するイザベル。傷つけ合うふたりの間には溝ができ壁ができる。しかし、そんなお互いを最終的には理解し合い結婚するふたりだった。
 監督はノルウェー出身のピーター・ネス。まだ48歳の若手監督だ。ノルウェーではすでにいろんな賞を獲っている人気監督だ。今回が初めてのアメリカハリウッド進出作品。『レインマン』のロナルド・バスの巧みな脚本でセリフ回しのいい心理表現豊かな作品に仕上がった。アスペルガー症候群は厳密には違うかもしれないがいわゆる自閉症だ。そんな自閉症のふたりを演じるのがジョシュ・ハートネットとラダ・ミッチェルだ。ふたりとも症状の違う社会にうまく適応出来ない人間をうまく嫌味なく演じている。とくにジョシュ・ハートネットの落ち着きのない仕種などはうまいの一言に尽きる。
 アスペルガー症候群は特定の分野で特に秀でた才能を発揮するらしい。このふたりは同じ病気でありながらまったく正反対のふたりである。社会に適応できない部分が違うのだ。寄り添って生きていこうとすればするほど、正反対の生涯を意識せざるを得ないふたり。純粋であればあるほど罵り合い傷つけ合う。精神的な病(正式にはボクは脳の病気だが)を抱えるボクにとってこの映画は取り上げたり語ったりするのが難しい映画だ。ひとと違う部分を認識し受け入れて共存していくのか、そこを排除して適応しながら生きていくのか、これは大きな違いである。この映画ではハッピーエンドに終わるが、実を言って、ボクは有り得ない、いや有り得なくはないかも知れないが難しいことだと思う。それぞれが自分で精一杯なのに相手を受け入れ思いやったり助けたりしないといけないからだ。正直、そんな余裕はボクにはない。自分のことで手いっぱいだ。しかし、うまくやれないことは違っても、出来ないときの気持ちがわかるのはボクらも同じだと思う。うつ病はやりたくても出来ないからだ。適応とは少し違うかもしれない。容量が少なくて、出来ないときに凹んだりパニックを起こしたりする。昔は出来た、というのが最大の敵だ。
 恋愛はどうだろうか。常に依存したい人もいるだろう。ボクはうまく甘えられないから、独りにしてほしいときもある。焦りや苛立ちを感じていて人に優しく出来ないときは独りでいたい。何もやれなくても。
 この映画はボクのような病気の人間には勇気を与えてくれた映画となった。うまくいけば、やっていけるかもしれない勇気を与えてくれる。映画はこうでなくちゃな、と思う。ハリウッド的な映画だ。少し暗いのが続いたのでハッピーエンドを取り上げた。でも、障害があって、それが映画のベースになっていて、自分が病気は違っても似たような感情を持っているから、少し凹むよな。ふたりが一生大丈夫な保証まで与えてくれた映画ではなかったからだ。とりあえず結婚まで漕ぎつけた映画なのだから。
 監督は、この映画は社会に適応できない人の映画だが、その人たちと健常者の違いを描きたかったのではなく共通点を描きたかったと言っている。つまり、症状はなくても、人は恋愛において価値観やアイデティティの違いから傷つけ合う。そこを映画を通して観てほしかったと。果たして、観客すべてがそれを捉える事が出来ただろうか。しかし、ボクにとってはピュアで現実的な映画だった。観てよかった

◎作品データ◎
『モーツアルトとクジラ』
原題:Mozart and the Whale
2004年アメリカ映画/上映時間:1時間34分/アートポート配給
監督:ピーター・ネス/脚本:ロナルド・バス/製作総指揮:マンフレッド・D・ヘイド, ダニー・ディムボート, グレッド・コーチリン, ジョセフ・ローテンシュレイガー, アヴィ・ラーナー, トレヴァー・ショート, アンドレアス・ティースマイヤー/製作:ジェームス・アシェソン, ボアズ・デヴィッドソン, ロナルド・バス, フランク・デマルティーニ, ロバート・ローレンス/音楽:デボラ・ルーリー/撮影:スヴァイアン・クローベル
出演:ジョシュ・ハートネット, ラダ・ミッチェル, ゲイリー・コール, ジョン・キャロル・リンチ, リッキー・ミューラー

recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

four minutes

 60年以上も女子刑務所でピアノ教師をつとめるトラウデ・クリューガー。殺人罪で入所したジェニーフォン・レーベルという天才ピアニストに出会う。彼女は稀有な才能を持ちながらも、過去の忌わしく哀しい出来事から人生を誤り、心を固く閉ざしていた。才能を見抜いたクリューガーはそれを花咲かせることが、残り少ない自分の人生使命だと決意し、所長を説得して特別レッスンを始める。幼いころから様々な国際コンテストに出場し、神童と騒がれながらも愛を知らずに育ったジェニー。初めて愛した人が若くして亡くなって以来、音楽に人生を捧げて来たクリューガー。レッスン初日から全く違う世界に住む二つの魂の激しいぶつかり合いが始まった。彼女はジャズやロックを充分の音楽だと愛し、クリューガーはそれを低俗な音楽だと非難する。だが、何があっても、自分の才能を固く信じてくれるクリューガーに、ジェニーは少しずつ心を開き始める。しかし、どうしても心からすべてを開放することはなかった。ある日、クリューガーを慕う看守のミュッツェの仕組んだ陰謀に嵌められジェニーは暴力事件を起こしてしまう。決勝大会を目前にしてピアノを禁止されるジェニー。彼女をかばい解雇されてしまうクリューガー。しかしクリューガーには法をも恐れぬ計画があった。果たしてジェニーは晴れてドイツ・オペラ座の舞台に立った。しかし、そこには彼女を再び収監するため何台ものパトカーが。しかし、彼女の演奏は行われた。それは、レッスンしたものとは違う彼女のスタイルだった。圧巻の迫力に感動した観客のスタンディングオべーション。その舞台の上で手錠をかけられるのだった。
 まだ45歳の若手監督クリス・クラウスはドイツではすでに多くの賞を獲得している新進気鋭の監督。しかし、我々の目に触れた最初の作品はこれ。日本で通常の公開がされたのは初めてである。製作者の2人はどのサイトにも出てこず、仕方ないからエンドロールで目を凝らしてコマ送りで書きとった。この努力を買ってほしい。心に深い傷を負った囚人のジェニーを演じるのは1200人のオーディションから選ばれた新人女優ハンナ・ヘルツシュブルング。心の痛みを味わったものなら誰もが共感する真実に迫る演技は体当たりだ。そして、その暴力的出奔放な彼女に真っ向から立ち向かう老教師を演じるモニカ・ブライブトロイのいぶし銀な演技も圧巻だ。またひとつ、シューマン、バッハ、ヴェートーベン、モーツアルト、シューベルトなどのクラシックの名曲をあつかった名作が誕生した。そして、ここには破天荒で自由な音楽がちりばめられている。彼女の演奏が素晴らしいかどうかは技術的にはよくわからないが、迫力と感動はこれまで作られた映画に負けていない。
 これは天才的なピアノの才能を持ちながら過ちを犯して囚われた少女と、彼女の才能を開花させることに全てを賭けた年老いた女性教師の物語だ。ふたつの魂の共鳴がある。しかし、普通であれば出会わない2人だ。ふたつの数奇な運命がピアノというひとつの音楽を通じてハーモニーを奏でる。孤独にやりきれなかったときにジェニーとクリューガーの人生が交わった。教師役のモニカ・ブライプトロイ、ジェニー役のハンナー・ヘルツシュプルングは揃ってバイエルン映画祭女優賞に輝いた。背景も実に複雑なあまりにも衝撃的な音楽映画なのである。近親相姦、同性愛、戦争、刑務所の内部事情とマスコミ、しかし、これは2人の悲惨な運命を飾れば何でもよい。それがあるから2人は心が近づくのだ。
 続けて重い映画になったので展開を変えようとしたのに、また途轍もなく暗い映画になってしまった。タイトルは原作も英語タイトルも「4分」。これを邦題では『4分間のピアニスト』とした。そうだ、4分は彼女にチャンスとして与えられた時間なのだ。演奏を終えてラスト、彼女は決してしたことのないお辞儀を心をこめてクリューガーに向って丁寧にする。それが最終的に心を完全に開いた瞬間である。そして粗削りで生々しい芸術とは言えない、しかし感動と迫力の演奏に終には低俗な音楽という言葉を排除するように熱い想いに胸を貫かれるクリューガー。もう、彼女は使命を全うしたのだろう。ラストは手錠に終わるのにハッピーエンドに思えるのはなぜだろうか。

◎作品データ◎
『4分間のピアニスト』
原題:Vier Minuten(英語タイトル:Four Minutes)
2006年ドイツ映画/上映時間:1時間55分/ギャガ・コミュニケーションズ配給
監督・脚本:クリス・クラウス/製作:メイケ・コルデス, アレクサンドラ・コルデス/音楽:アネッテ・フォックス/撮影:ジュティス・カウフマン
出演:ハンナ・ヘルツシュブルング, モニカ・ブライブトロイ, スヴェン・ピッピッヒ, ヤスミン・タバタバイ, リッキー・ミューラー

recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆

dancer in the dark

 舞台は1960年代のアメリカの片田舎。チェコからの移民セルマは女手一つで息子を育てていた。貧乏だが工場での労働は、友人に囲まれてそれなりに楽しいと感じていた。しかし彼女は先天性の病気に侵されていて徐々に視力が失われつつあり失明する運命にあった。息子もまた、彼女の遺伝により13歳で手術をしなければいずれ失明する運命にあった。それを秘密にしつつ、手術費用をこつこつ貯めていた。彼女の生きがいはミュージカル。素人の劇団で稽古をし、仕事帰りに友人のキャシーとハリウッドミュージカル映画を観ることを楽しみとしていた。ある日、とうとう失明してしまったがそれを隠して作業していた事で工場の機械を壊してしまい、セルマは解雇を告げられる。さらに息子を心配させない為に、父に送金していると周囲に嘘をついてまで溜め続けた手術費用を親切にしてくれていると思っていた大家で隣人の警察官ビルに盗まれてしまう。ビルの家を訪ねたセルマだが、借金を苦にしたビルをもみ合っているうちに殺してしまう。やがてセルマは殺人犯として逮捕され裁判にかけられる。ビルと二人だけの秘密と約束したビルの借金のや、息子を守るために、裁判で無罪を証明する真実の一切を話すことを拒んだ。セルマはジーンが目の手術を無事受けることだけを願いつつ、自分は絞首台で死んでいくのであった。
 この映画は、ラース・フォン・トリアー監督のデンマークの映画。『奇跡の海』と『イディオッツ』に次ぐ「黄金の心」三部作がこの映画で完結したことになる。これは目の不自由なシングル・マザーがたどる悲劇を描いた異色ミュージカルということになる。2000年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得した。完全にではないにせよ、ドグマ95(オールロケ、手持ちカメラ、自然光による撮影。アンチハリウッド映画として提唱されている)を体現した映画だといわれる。アイスランドの人気女性歌手ビョークを主役に抜擢し、彼女にもカンヌで最優秀女優賞をもたらした。アカデミー賞にもノミネートすらされず、もっとも、彼女は歌手であり女優業には違和感を抱いていたためあまり関係ないだろうが、ボクは彼女に獲ってほしかった。手持ちのカメラを多用したカメラワークやジャンプカットによるスピーディーな画面の展開、視力を失う主人公の空想のシーンを明るい色調のミュージカル仕立てにした新奇な構成などにより高い評価を得た。一方、その奇抜なカメラワークが画面からはずれたり、無実なのにハッピーエンドではない結末、心理描写の暗さが災いし、否定的な評価も多かった。その奇抜な撮影は「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のロビー・ミュラーが担当し、ミュージカル仕立ての振付も話題となった。音楽もビョークが担当し、レディオヘッドのトム・ヨークとのデュエットによる主題歌“I’ve seen it all”がゴールデングローブ賞やアカデミー賞の歌曲部門にノミネートされるなど高く評価された。重いリズムと祈るようなビョークの声と儚い寂しげなヨークの声が映画の雰囲気と相俟って名曲となった。
 この賛否両論分かれる映画をボクがどう評価するかというと好きな作品ということになる。優れているのかはどうかわからない。悪い評価の通り、カメラワークの奇抜さは酔って気分が悪くなるほどだ。これは視力障害の主人公の視界を現したとも言える。成功なのかどうかは観ていて気分がすぐれなくなるのでわからない。そして、前回紹介の『主婦マリーがしたこと』と同じ死刑執行の映画だ。暗い。しかも、この主人公の場合は無実である。また、なぜミュージカルにする必要があるのか。しかし、それでもなお、この映画を好きと言えるのは、暗くはあるものの徹底した人間描写がはっきりしている点と、それを演じたビヨークの演技のせいだろう。ミュージカルシーンは現実としては描かれず、ミュージカルに憧れる主人公セルマの空想として描かれている。そこは官能的ともいえるビヨークの表情の真骨頂と言える。実はあまりミュージカルは好きではない。突然歌い出すので、歌で演技をごまかしているように感じるからか、それとも現実味がないせいか、自分でもよくわからない。しかし、この映画では徹底的に空想場面をミュージカル仕立てにするという、逆に現実味を帯びない方が良く、虚構部分がはっきりするからいいこうかとなっているからだ(と思う)。ラスト、現実と虚構が融合して終わる。悲惨であっても彼女が夢見た歌を死刑執行時に歌うのだ。死ぬ間際夢を叶えたような達成感がある。また視力障害を差別的に扱っていない点も好感が持てる。この映画で泣けた人は多いらしい。ボクは映画でよく泣くがこの映画では泣けなかった。悲惨過ぎたのだ。すなわち、泣ける映画イコールいい映画、もしくは好きな映画とはならない。ひとつのスケールになるだけだ。必死に頑張っても頑張っても報われない。これは一生懸命をモットーに生きてきたボクにとってはまるで救いにならない。
 続けて重い作品を書いてしまった。次回は展開を変えよう。

◎作品データ◎
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
原題:Dancer in the Dark
2000年デンマーク映画/上映時間:2時間20分/松竹映画=アスミック・エース配給
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー/製作総指揮:ペーター・オールベック・ヤンセン, マリアンネ・スロット, ラース・ヨンソン/製作:ヴィペケ・ウィンデロフ/音楽:ビヨーク/撮影:ロビー・ミュラー/振付:ビンセント・パターソン
出演:ビヨーク, カトリーヌ・ドヌーブ, デビッド・モース, ピーター・ストーメア, ジョエル・グレイ

 
recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

the story of women 3

 第二次世界大戦中、ドイツ軍ナチ占領下の北フランス・ノルマンディで、ユダヤ人狩りによって親友のラシェルが連行され、悲嘆にくれるマリーは、子育てをしながら夫の帰りを待つ平凡な主婦だった。暮らしは裕福とは程遠いものだった。ある日、当時違法とされていた隣に住むジネットの堕胎を手伝い、お礼に彼女から蓄音機をもらった。マリーは隠れていた自分の能力に気づき、収入源にしようと決める。折りしも数日後、夫のポールが、傷痍軍人として復員してきたが、しかし既にマリーの夫への愛情は、すっかり冷えきったものになっていた。その頃からマリーは、ふとしたことで知りあった美しい娼婦のリュシー“ルル”の仕事用に自分の部屋を貸してやるようになり、この副収入のおかげでいい歳夫に頼ることなく生活力をつけて次第に暮し向きが良くなってゆき、輝いて行く一方だった。しかしポールはヒモ状態となり、相変わらず彼女のポールに対する態度は冷淡、やがてマリーは、リュシーの常連客で今はドイツ軍のスパイをしているヤクザ者のリュシアンと深い関係になる。そして堕胎による家庭内自立でマリーは、もはや有頂天だった。しかし、そんな日々もつかのまの幸せに終わる。ある日帰宅したポールが、ベットで眠りについているマリーとリュシアンの姿を目撃し、嫉妬からついに妻の堕胎の事実を匿名の手紙で警察に知らせる。マリーは逮捕された。そして彼女は異例にも、国家裁判所の法廷で裁かれることになる。ドイツ軍の占領で道徳観にこだわりだした国によって、彼女はみせしめとして国家反逆罪による極刑を求刑される。1943年6月、マリーはフランス最後の、女性のギロチン受刑者として、その生涯を終えるのだった。
 ナチ占領下の北フランス、ノルマンディを舞台に、フランスの女性最後のギロチン処刑になった平凡な主婦のたどる過酷な運命を描く人間ドラマ。実話を元にしたシリアスな、レジスタンス神話とは異なる女性映画である。生計のため、医師免許を持たない違法堕胎医となった女が夫の密告により逮捕され、ギロチンにかけられるまでを、当時のフランス社会の描写も織り込みながら巧みな緊迫感を以て極めてクールに描いている。監督と脚本はクロード・シャブロル、長い停滞期をうち破る、リリシズムを貫きとおした秀作だ。ニューヨーク映画批評家協会賞やロサンゼルス映画批評家協会賞で外国語映画賞を受賞している。主演の主婦マリーを演じるのがフランスを代表する演技派女優イザベル・ユペールで、ヴェネチア国際映画祭女優賞を獲得している。1991年この主演・監督コンビで『ボヴァリー夫人』が製作された。夫ポールはフランソワ・クリュゼ、彼女と親友になるクールだが気の良い娼婦役にはマリー・トランティニャンが扮しており、主演に劣らない熱演をしている。
 さて、当時、この映画は監督も俳優も無名で製作会社も日本と商業流通がなく、東京渋谷や名古屋駅西のミニ・シアターでしか観ることができなった。テレビ放映もないし、アスキー映画株式会社が設け度外視1992年にビデオ化してくれたものの、あっという間に廃版となり、DVD化もされてない。ボクがどんなに紹介しても、字幕のない外国のDVDでしか観ることは不可能だ。奇特なビデオレンタル店に残っていたらめっけもんである。特に背景設定は実話ということもあり非常に丁寧に描かれている。ラスト、ギロチン刑のシーンは、実に衝撃的だ。ボクはこの邦題の陳腐な日本の映画界に於いて、この「主婦マリーがしたこと」というタイトルは実にいい邦題だと思っている。英語タイトルでは直訳すれば「女性たちの話」である。「主婦マリーがしたこと」と言えば、それはきっといかがわしいことで主婦としてマリーが普通はしないことを連想させる。普通であれば不倫程度を想像するのだ。つまり、観客は予備知識なしにこのタイトルを見れば「主婦としてマリーがしちゃった事」と読み替えてしまうタイトルだと思うのだ。そういう意味で秀逸なタイトルだ。フランスは先進国なのに、映画を見る限り、イギリスなどに較べ、田舎くさい。今のパリなどを想像させない。しかしマリーはルックスもよく、男の子女の子にめぐまれ、これがまず「少しだけ」他と違う主婦だ。そして、隣に偶然堕胎を希望する女性が済み、娼婦と友人になり、夫は戦争に駆り出され愛が冷め、浮気相手が見つかる。この辺も「少しだけ」珍しい、でも、ありうる「事情」だ。誰もが、可能性は少なくともありうることなわけだ。夫は戦争に、男友達はユダヤ人という疑いで強制労働に連れてゆかれ、主婦マリーはとっても寂しかった。同情できる。だからと言って法を犯してはならない。金というよりはいい暮らしに目が眩み、普通に欲望を満たしてしまう。彼女は、いつか歌手になることを夢見ていた。子供たちと歌を歌い、ダンスをする場面、これが唯一幸せそうな優しいシーンだ。妹ばかり可愛がる母から、いつもかまって欲しくてたまらない兄は、恥ずかしがりながらも、ダンスを踊る。その直後に、子供たちの前で彼女は連行されていく。ほんのわずかの幸せなシーンだ。そんな「少しだけ」違う普通の主婦が、ドイツに占領されてにっちもさっちもいかないフランス政府の、政治の犠牲にされてしまう。「主婦マリー」ではなく、不道徳の象徴としての「魔女マリー」。歌手になれなかった彼女の声はエンドクレジットロールの途中でぷつりと途絶える。ギロチン台の上で彼女が途絶えたかのように。
 違法堕胎手術をしていた女の話で、最近『ヴェラ・ドレイク』という作品が出来た。こちらはDVD店でどこでも探せる。この映画も紹介したいのだが、同じモチーフで同じ悲劇だが、『主婦マリーのしたこと』の方が辛い。こっちを本当は観てほしいのだな。終始無表情に誓い彼女が国家裁判所で判決の直前見せる少しだけすがるようなまなざし。投げやりの中に畏怖を見せる表情。そして、人が変わったかのような憎悪の爆発。この辺でボクは、ほとほと嫌気がさした貧しい生活や、帰ってきた愛情を感じない夫、その夫の汚した下着を洗う日々が蘇ってくる。終始スクリーン全体に漂う重い空気と、マリーが重なる。この映画の終焉は、母からの愛情を常に求めた、息子のナレーションで続く。「処刑された親を持つ子供たちへ愛を」というメッセージ。違法ではある。それが不運にも「見せしめのギロチン刑」にまでなってしまった。
 「主婦マリーがしたこと」は、「してはいけないこと」だった。ただそれだけ。

◎作品データ◎

『主婦マリーがしたこと』
原題:Une Affaire de Femmes(英語タイトル:The Story of Women)
1988年フランス映画/上映時間:1時間48分/シネマドゥシネマ配給
監督:クロード・シャブロル/脚本:クロード・シャブロル, コロ・ダヴェルニエ・オヘイガン/製作:マラン・カルミッツ/音楽:マチュー・シャブロル/撮影:ジャン・ラビエ
出演:イザベル・ユペール, フランソワ・クリュゼ, マリー・トランティニャン, ニルス・タヴェルニエ, マリー・ブネル
 
recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

No.0023 『GO』

go 2

 杉原は、日本の普通高校に通う3年生。在日韓国人三世である。父親に教え込まれたボクシングで、ヤクザの父親を持つ加藤や朝鮮学校時代の悪友たちと喧嘩に明け暮れる日々を送っていた。彼は朝鮮学校時代、民族学校開校以来のバカと言われ、社会のクズとして警察にも敬遠されるような存在だった。ある日、杉原は加藤の開いたパーティで桜井という一風変わった少女と出会う。ただ、男子の悪友とばかりつるんでいた彼にとって新しい日常が舞い込んだ感じだ。ぎこちないデートを重ねて少しずつお互いの気持ちを近づけていった。そんな折り、尊敬できる友人であったジョンイルが、誤解から日本人高校生に刺されて死んでしまう。親友を失ったショックに愕然としながらも、なぜか同胞の敵討ちに向かう仲間に賛同はできなかった。彼は桜井に救いを求める。そして勇気を振り絞って自分が在日朝鮮人であることを告白するのだった。
 小説「GO」は、2000年に講談社により発行された金城一紀の作品で同年の直木賞を受賞した。2001年10月に行定勲によって映画化された。行定監督は当時小作品『ひまわり』で映画デビューするもさほど話題にもならず、この作品で名を知らしめた。どちらかというと直木賞作品の映画化という話題先行の様相は否めない感じだったが、作品自体、クオリティの高さを見せつけ、結果的に大成功を収めた。事実この後、人気監督となり『世界の中心で、愛をさけぶ』『北の零年』『春の雪』と秀作を撮り続けている。そして、この主人公カップルを演じた窪塚洋介と柴咲コウの出現は若手実力派に陰りを見せていた映画界に活気をもたらした。この後柴咲コウは順調にキャリアを積む。しかし残念ながら窪塚洋介は実生活の奇行や飛び降り騒動がマイナスイメージを植え付け、今必死に作品を選んで復活の日を準備している段階のように思う。この映画は作品自体と、主演男女優に加え、実力派の大竹しのぶ、山崎務の助演を得て、すべてのカテゴリーで賞を総なめした。ざっと挙げてみてもキネマ旬報賞日本映画第1位・監督賞・主演男優賞・助演男優賞・助演女優賞、第25回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞・最優秀助演女優賞・最優秀助演男優賞・最優秀監督賞・最優秀脚本賞・最優秀撮影賞・最優秀照明賞・最優秀編集賞、第44回ブルーリボン賞助演男優賞・監督賞、第56回毎日映画コンクール脚本賞、第26回報知映画賞作品賞・主演男優賞・助演男優賞・助演女優賞、第14回日刊スポーツ映画大賞助演男優賞・監督賞、第14回日本映画批評家大賞主演男優賞・助演男優賞(山本太郎)・監督賞などである。いずれも主演男優は窪塚洋介、助演女優は柴咲コウ、助演男優は第14回日本映画批評家大賞以外は山崎勉である。
 日本映画をよく観るかと言えば大体洋画8か9に対して邦画2か1しか観ていない。アニメやホラーとなると半々になるが、どうも日本映画はスケールが小さく見えてしまうし華やかさに欠けると思えてしまう。何がいちばん好きかと訊かれると結構困る。大作となると歴史ものちゃんばらになりがちだ。しかし、日常や青春を描いた小さなっ作品となると気の利いた作品が多い、そこそこ好きな作品はたくさんある。
 このところ取り上げる映画がすべて登場人物がどこかにハンディを持った作品が多い。今回は在日朝鮮人だ。アメリカが黒人差別が問題だとすれば、そこに及ばなくとも匹敵するのが、日本の場合、同和差別問題と在日朝鮮人差別問題だと思う。実際、ボクが子供の頃は、朝鮮人は身分が低いとか韓国人は怒りっぽいとか、暗黙の通説だった気がする。今となっては実にナンセンスだ。ボクもまったくと言っていいほど古い感覚は持っていない。むしろ、そんな話題になると嫌な気分になる。ここ数年の韓流ブームでアジアの国境の枠はかなり取り払われたものだと思う。しかし、その一方で靖国の問題は増大するばかりだ。人として、きっとほとんどの人が国別の差別をしていないのに対して、愛国心から歴史の汚点はいまだに尾を引いているのではないだろうか。まだまだ、きっと、当人たちはボクが感じているよりずっとずっと不都合や怒りを感じているのだろうと、ときどき感じて止まない。もっと、切実さを持って意識した方が良いのかもしれない。 

 

◎作品データ◎
『GO』
2001年日本映画/上映時間:2時間2分/東映配給
監督:行定勲/原作:金城一紀/脚本:宮藤官九郎/製作:佐藤雅夫, 黒澤満/音楽:めいなCo./撮影:柳島克己ー出演:窪塚洋介, 柴咲コウ, 大竹しのぶ, 山崎勉, 新井浩文
 
recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆

powder

 ある嵐の夜、雷に打たれた瀕死の妊婦が担ぎこまれてきた。奇蹟的に赤ん坊は生まれたが、間もなく母親は息を引き取っってしまった。赤ん坊は人目を忍んで育てられた。数年後、テキサス州イートン郊外の農家で老人の死体が発見された。赤ん坊の祖父だった。ジェリミーと名付けられた彼は施設に引き取られ、高校に通うことになった。初めて見る外の世界。異様なほどに白い肌、不思議な色の瞳という外見と、高い知能と超能力に、人々は恐れを抱き偏見の目で彼を見た。それは彼にとって穢れを知らない分傷つき心を閉ざすこととなった。その肌の色からパウダーと呼ばれ、施設でいじめを受けていた。だが、彼の不思議な力の前には、いじめっ子もなすすべがない。高校でパウダーは物理の実験中に失神してしまう。物理の教師ドナルド・リプレイは彼の身体があらゆる電気エネルギーを引きつける能力を持つことを確信した。知能テストで世界でいちばん知能が高いと判断された彼に徐々に心を開く人が増えた。町の祭りの日に同級生のリンゼーと初めての接吻を経験する。だが彼女の父親に仲を引き裂かれ、パウダーは大きなのショックを受けた。教師のリプレイは彼を慰める。パウダーは施設を出て住んでいた懐かしい祖父の家へ向かう。心配してやって来たリプレイらの前でパウダーは天使のように飛び立っていくのだった。
 監督はこれが映画デビュー(だと思う)となるビクター・サルバ。こんなきれいな映画を撮りながら、『ヒューマン・キャッチャー』など2作品くらいしか公開されず(と思う)、あまり後世に名を遺すような活躍には至っていない。残念だ。この特異な人物パウダーを演じたのは当時アイドル的存在だったショーン・パトリック・フラナリー。この役に挑むため全身の体毛を全て剃り、アイドル脱却を図った。この作品前後して50本以上の映画に出ているが、残念ながら評価には至っていない。たぶん、この映画がいちばんの出来のように思う。
 色素を持たないという障害のため、肌は真っ白で体毛も生えない。そのため実の父親には見捨てられてしまい、祖父・祖母と一緒に誰の目にもつかないようにひっそりと地下室で暮らしていたという設定。そこに老夫婦の死を展開させて彼のピュアな心を、普通の人々からは違和感を憶えてしまう容貌とともに、外界へと引きずり出してしまうこととなる。興味本位の周りの好奇の目は理不尽ないじめとなって彼の心を傷つけてゆく。ちょうど先回書いた『シザーハンズ』を彷彿とされるピュアな心と周りのフリークを見るような眼。『エレファント・マン』でも同じような感じを持った。それが、フリークであろうが、人造人間であろうが、超能力者であろうが、病気であろうが、結果は同じなんだな、と思わされた。そして、超能力者の末後という意味では『フェノミナン』を連想させる。どれもこれもラストは必ず、再び閉じこもるか、命を絶つか、である。どうしてそうなってしまうのだろう。みんな、初めは好奇の眼でも、一度は心を開くようになるのに。その表情がどれも、本当に切なくなる。哀しいほど。観ている途中も終わった後も嗚咽にもなる号泣だが、それが悲哀とか憐憫とか同情でしかないのが辛い。残念だ。感動とは少し違うのだ。心の癒しと謳っているが癒しになりきれていない、哀しい。
 白い、ということはそのまま色がついてないことを表現している。彼は、何もかけらも悪の感情を持っていない。高い知能と電解質な体質、人や動物の心が読める超能力、それと引き換えに得意な容貌を与えてしまうことしか神はできないのだろうか。そして、人間はピュアなまま生きられないのだろうか。しかし、この映画の彼は途轍もなく際立って美しかった。それだけは言える。

 
◎作品データ◎
『パウダー』
原題:Powder
1995年アメリカ映画/上映時間:1時間52分/ブエナ・ビスタ配給
監督・脚本:ビクター・サルバ/製作総指揮:ライリー・キャサリン・エリース, ロバート・スヌーカル/製作:ロジャー・バーンバウム, ダニエル・グロドニック/音楽:ジェリー・ゴールドスミス/撮影:ジャージー・ジーリンスキー
出演:メアリー・スティンバーゲン, ショーン・パトリック・フラナリー, ランス・ヘンリクセン, ジェフ・ゴールドブラム, ブランドン・スミス
 
recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆

edward scissorhands  2 

 丘の上の城の様な屋敷に年老いた発明家が住んでいた。彼はたったひとりで人造人間のエドワードを作ってたが完成間近に急死してしまう。エドワードはハサミの手のまま取り残されてしまった。化粧品のセールスで訪れていたペグによって発見された彼は町に連れてこられる。初めのうちは器用にハサミの手で植え木を切ったり、髪型を変えたりして物珍しがられるが、ハサミの手で次々と人の体や心を傷つけてゆくエドワードは町にいられなくなってしまう。ペグの娘キムに恋をするが、キムの恋人を不意に殺してしまう。彼は二度と町の人々の前に姿を現すことはなかった。
 監督は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のティム・バートン。この『シザーハンズ』は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』と並んで最高傑作として賞賛されている。撮影も優れている。町を遠景で見せたり、厳かな城の全貌、雪を降らせるシーンは美しさの極みだ。そして何といってもこの映画にコミカルでハートウォーミングな印象を添えているのは俳優陣の演技。感情のなさそうで切なそうなエドワードを演じるジョニー・デップはセリフ少ない中で表情で名演をする。ずっとティム・バートンと組んで作品を作っているジョニー・デップだが、彼の代表的な作品になっていると思う。少なくともボクはいちばん好きだ。彼を町に連れてきたペグを演じるダイアン・ウィーストもやさしいおばさんぽい少し間の抜けた感じを醸し出していて優しさ溢れる作品の印象に一役買っている。あと、このことはまだ薬物中毒も高飛車な印象もかけらもないウィノナ・ライダーが可愛らしくていい。『ビートル・ジュース』でおかしな少女を演じて印象を残した彼女はずいぶんきれいなアイドルっぽい外見になり、ピュアな恋愛を誇張させている。この映画で実際にも恋に落ちたふたりはジョニー・デップが腕に「ウィノナ命」とタトゥーを入れるなどしたうえ、綴りを間違えて彫ってしまうなどおばかな話題には事欠かなかった。しかし、この映画は小作品として軽視されメイクアップや視覚効果も含め賞ものには一切無視されてしまった。残念だ。
 冒頭の20世紀フォックスの画像に雪が降っていて、最初からピュアな印象を想像させる。実際、この雪は、この物語に大事な伏線となっている。ラスト、年老いたキムが子供を寝かせつけるために語る物語の中で、子供から「エドワードは生きているの?」と訊かれ、「きっとね。なぜならエドワードがはじめてここに来るまで雪の降らない町だったの。でもそれ以来毎年雪が降るわ。それはきっとエドワードが降らせていると思うの」と答えるシーンがある。とてもきれいな言い回し、そしてきれいなエンディングだ。
 小さな作品とはいえ、興味惹かれる部分は多分にある。キムが「抱きしめて」と言ったときハサミの手では「出来ない…」としか言えない彼の虚しさ、抱きしめたいのにできない切なさは痛いほど伝わる。ハサミの手では触れるだけで傷つけてしまう。キムの弟を助けるシーンでも傷つけてしまう。キムの恋人をちょっと振り払っただけでも傷つけてしまう。自分は愛を表現したくても傷つけることしかできない辛さがとても痛い。人を傷つけるたびに彼の心も傷ついているのに。人造人間にこんなピュアな心を持たせ、しかも完成前に死んでしまった博士は罪深い人だ。彼が生きていれば、実に幸せなエドワードの人生なった気がするし、けれど、町に降りて初めて人間的な自分を発見したともいえる。そして人というものは珍しいうちは興味を持ってもたはやすが、ひとたび面倒が起きるとフリークスとして突き放してしまうエゴイストな動物であることも語っている。
 下手をすれば、カルトムービーになってしまうところだが、エドワードの孤独な魂に終始徹底し拘ったせいで美しいメルヘンに昇華させてある。あり得ない設定、奇想天外な発想はコメディであり、ラブストーリーであり、人間ドラマであり、ファンタジーである。どのジャンルに入れるか迷った。奥深さはないが実に心温まる優しい、個人的に大好きな作品になった。何度観ても、ハートウォームな心地よさがある。

 
 ◎作品データ◎
『シザーハンズ』
原題:Edward Scissorhands
1990年アメリカ映画/上映時間:1時間38分/20世紀フォックス配給
監督:ティム・バートン/原案:ティム・バートン, キャロライン・トンプソン/脚本:キャロライン・トンプソン/製作総指揮:リチャード・ハシモト/製作:デニーズ・ディ・ノービ, ティム・バートン/音楽:ダニー・エルフマン/撮影:ステファン・チャプスキー/特殊メイク:スタン・ウィンストン
出演:ジョニー・デップ, ウィノナ・ライダー, ダイアン・ウィースト, アンソニー・マイケル・ホール, アラン・アーキン
 
recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆