Category: Comedy


 離れ小島の町シーヘブンで生まれ育ったトゥルーマン・バーバンクは看護婦でしっかり者の妻メリルや親友のマーロンたちに囲まれ、保険会社のセールスマンとして何不自由ない平穏な暮らしを平凡に過ごしていた。明るい性格の彼だったが、彼は生まれてから一度も島から出たことがない。ボート事故で父親を亡くしたというトラウマで水が怖くなってしまったからである。だが、大学時代に出会った忘れられない女性、ローレンに会うためフィジー島へ行くというささやかな夢があった。ある日、いつものようにキヨスクで新聞を買おうとした時に、目の前をホームレスの老人が通り過ぎた。それは幼い頃、海に沈み亡くなったはずの父親だった。しかし、その老人は間も無く何者かに連れ去られてしまう。彼は自分の周囲を不審に感じ始める。トゥルーマンがいつもと違う行動を取るとまわりの様子が落ち着かなくなることを発見。ある日、不安と疑問がつのり、妻のメリルに怒りをぶつけた末、メリルは家を出て行ってしまう。トゥルーマンは意を決し、地下室で寝ているふりをして海にボートで漕ぎ出して行く。実は彼の生活は生まれた時から24時間年中無休で全世界にテレビで放送されており、シーヘブンは作り物で彼以外の人間は全員、プロデューサーのクリストフの指示で動く役者であった。彼はアメリカ合衆国公民ですらなく、人生がそのままリアリティ番組として世界220ヶ国に放送されていた。徐々にこの秘密に気付き始めたトゥルーマンはクリストフと会話を交わし、本当の人生を歩みたいを訴えた。だが、虚構の世界へ戻るよう説得するクリストフは、装置を使って嵐を起こす。荒れ狂う波をくぐりぬけた果てに、トゥルーマンは虚構の世界であるロケセットの終端部にたどり着く。そこには外への出口があった。クリストフの呼びかけを無視し、トゥルーマンは出口から出て行った。そしてテレビでその一部始終を見ていた観客たちはトゥルーマンの勇気に拍手を送るのだった。
 “もし、自分の人生が演出されたものだったら?”という破天荒なオリジナリティーあふれる脚本を執筆したのは『ガタカ』で監督デビューも果たしたアンドリュー・ニコル。当初は彼が監督をする予定であった。1200万ドルという巨額のギャラのジム・キャリーが主演することになったため、それをピーター・ウィアーが叙情性とブラック・ユーモアあふれる人間ドラマとして映像化した。ユニークであり、かつ心温まる作品だ。秘密を知ったことから自分の運命を自らの手で切り開こうとする主人公をジム・キャリーが好演し、ゴールデン・グローブ主演男優賞を受賞した。またディレクターを演じたエド・ハリスもいい味を出して同じくゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞している。ゴールデングローブ賞ではさらに音楽賞を獲得したほか、ヒューゴー賞の最優秀映像作品賞、サターン・アウォーズ最の優秀ファンタジー映画作品賞・脚本賞を獲得している。キネマ旬報ベスト・テンの第3位にもなっている。プロットはフィリップ・K・ディックの小説「時は乱れて」からたくさんのアイデアを拝借しているらしい。もちろん死んでしまったという父は本当の父ではなく俳優であり、また実際は前述の通り死んでおらず、のちに感動の再会を果たすことになる。
 これはこれまでに観たことのない全く新しい映画だった。ジム・キャリーは今回、トゥルーマンをお得意のただのおバカを演じるのではなく、優しくナイーブでしかしガッツのある男を演じ、大成功を収めた。観る側はいやでもトゥルーマンに感情移入してしまう。いつも通りのコミカルさにシリアスさを少し加えた彼の演技は、確実に俳優としてレベルアップしていることを示した。社会派で知られるピーター・ウィアー監督も全く新しい作品作りをした。面白いのは、この番組は広告がCMではなく番組中で宣伝されている点。トゥルーマンの親友マーロンがいつも缶ビールをカメラに向けていて宣伝したり、妻メリルが草刈機や万能ナイフなどを日常会話の中で宣伝している。不自然にココアの宣伝をしてしまったりもするのも面白い。自然に違和感をトゥルーマンと観る側に与えているのだ。トゥルーマンが全てに気付き、必死の逃避を開始すると、ただ笑っていられる映画ではなくなる。そして最後のジム・キャリーの笑顔が与えてくれる感動は、従来のコメディから得られるようなものではなかった。新しい社会風刺であり、新しいコメディだ。トゥルーマンは、セットの世界から出た後、今までの人生はすべて無駄だったと思うのだろうか、陽気なトゥルーマンにもどれるのだろうか、人を心の底から信じることができるのだろうか。とても気がかりだ。

◎作品データ◎
『トゥルーマン・ショー』
原題:The Truman Show
1998年アメリカ映画/上映時間:1時間43分/UIP配給
監督:ピーター・ウィアー/脚本:アンドリュー・ニコル/製作総指揮:リン・プレシェット/製作:スコット・ルーディン, エドワード・S・フェルドマン, アダム・シュローダー, アンドリュー・ニコル/音楽:フィリップ・グラス, ブルグハルト・ダルウィッツ/撮影:ペーター・ヴィゾウ
出演:ジム・キャリー, エド・ハリス, ローラ・リニー, ノア・エメリッヒ, ナターシャ・マケルホーン

recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆
 

 ある殺人事件の審議のために12人の陪審員が集められた。12人は、職業も年齢もバラバラで無作為に選ばれた人たち。陪審委員長を努める40歳の体育教師の1号、28歳会社員の2号、49歳の喫茶店オーナーの3号、61歳の元信用金庫職員の4号、37歳の会社員で庶務をしているOLの5号、34歳のセールスマンの6号、33歳タイル職人の7号、29歳主婦の8号、51歳歯科医師の9号、50歳のクリーニング屋店長の妻の10号、30歳役者の11号、30歳の大手スーパー課長補佐の12号。被告人が若くて美人だったことから審議は概ね無罪で始まる。すぐ全員一致で無罪が決定するかに思われたが、討論がしたくてたまらない2号が無罪の根拠をおのおのに詰め寄ったことから、審議は意外な展開を迎える。有罪派と無罪派に分裂、陪審員の感情が入り乱れ、被告人の有罪の線が濃くなっていく。しかし、中で独り存在の浮いていた11号が事件の謎解きを始め、事件の新たなる真実が判明、事態はまたまた逆転し、被告人は無罪となるのだった。
 『十二人の怒れる男』を元に、「日本にも陪審員制度があったら?」という架空の設定で描かれる法廷劇・密室劇。いまをときめく三谷幸喜が当時所属の劇団東京サンシャインボーイズのために書き下ろした戯曲。1990年にシアターサンモールで舞台として初演された。このときは三谷幸喜も一橋壮太郎という名前で出演していた。もし日本にも陪審員制度があったらという仮定に基づいて、12人の陪審員の姿をユーモラスに描いている。この好演がきっかけで映画化され、三谷幸喜は映画でも脚本を執筆、脚本だけに専念した。この成功がなければ、今の三谷ワールドはないだろう。監督は「櫻の園」の中原俊。
 この内容のせいでメディアなどで裁判員制度の話題になると、この作品が取り上げられることが多い。しかし、これが製作された頃は制度のかけらもない。今、作られれば、社会問題を茶化しているととらえられてしまうだろう。この辺の環境にこの映画の面白さがある。
 結論が導かれるまで、12人がそれぞれにちゃんと重要な役割を果たしていて、ヒントとなる見解を随所で言っている。それがラスト近くで明確な答えとしてつまびらかになっていくが、何のつながりも無さそうな伏線が巧妙に交錯しあってゆく経緯は三谷幸喜の脚本のなせる技だと思う。当時、だれも無名だった12人の作品として、秀逸な作品だったと思ったものだった。塩見三省、豊川悦司、相島一之の出演が今の活躍を導いたと言っても過言ではない。
 無作為に集められた12人の見ず知らずの日本人が、気を遣いながら、罵り合いながら、妥協して、また固執して、有罪か無罪かを二転三転させながら話を進ませるユーモア溢れる内容はアメリカの『十二人の怒れる男』のように1人の無罪主張から全員を説得するまでのやりとりではなく、二転三転するどんでん返しの連続。先が読めない。そして突拍子もない発想。それがなぜか討論の中で自然に流れていく。唐突でも何でもない。アメリカ版と違うのは、演劇的な要素が多く入っているように思う点。ストーリーの構築、結末の付け方、確かに面白おかしくは書いてあるが、ユーモアの中に人が人を裁けるのかという心理や社会的風刺を盛り込むやり方は演まさに三谷幸喜マジック。でも、ストーリー展開の面白さでは今もなお輝いているが、ここまで、セリフの面白さ、社会風刺の毒舌さはこの映画が最高なのではないだろうか。
 前回アメリカの『十二人の怒れる男』をアップしたとき、最近は日本の裁判員制度の導入に伴って、アメリカの陪審制度と比較されている書いたけれど、むしろ、この映画を参考にする方が適切かもしれない。シリアスでなければいけないということはない。コメディだから垣間見える本性もある。でも、「死んじゃえ」と「ジンジャエール」を聞き間違えるなんて、三谷幸喜はどういう頭の構造をしていて思いつくのだろう。これは、きっと、笑って観ればいい。

◎作品データ◎
『12人の優しい日本人』
1991年日本映画/上映時間:1時間56分/アルゴプロジェクト配給
監督:中原俊/脚本:三谷幸喜/製作:岡田裕/音楽:エリザベータ・スツファンスカ/撮影:高間賢治
出演:塩見三省, 相島一之, 上田耕一, 豊川悦司, 梶原善

recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆

 漁業局で毎日、魚を数える仕事をしているアクセルの夢は、アラスカでオヒョウを釣り上げること。叔父レオの使いでポールがアクセルの前に現われ、故郷アリゾナからレオの結婚式の介添人を努めてくれと言ってきた。キャディラックのディーラーをしているレオは、アメリカン・ドリームを信じる男だ。彼はアクセルを仕事のパートナーにしようとしていた。ポールの夢は映画スターになることだ。彼は映画館で舞台に上がり、『レイジング・ブル』のデ・ニーロのセリフぴったりに喋ってみせた。そんな折り、そのままアリゾナに居座り、叔父の仕事である車のセールスを始めたアクセルの前に、未亡人のエレインと義娘のグレースが現われる。夫を射殺した過去のあるエレインの夢は空を飛ぶこと。そして、自殺願望のあるグレースの夢はカメになること。母娘は互いに愛しあい、憎みあった。エレインに一目惚れしたアクセルは、その日から彼女のために飛行機作りに没頭する。ある夜、レオの新妻ミリーの知らせでレオが自殺を遂げたことを知ったアクセルは駆けつけるが、レオは「夢は終わった。お前も大人になれ」と言い残して死んでしまう。アクセルはエレインの40歳の誕生日に飛行機を贈る。しかしアクセルの心はエレインとグレースの間で揺れ動いた。その夜、嵐の中を出ていったグレースは、2人の見ている前で拳銃で遂に自殺を決行した。アクセルはアメリカにはもう、夢など残っていないことに気づくのだった。
 アリゾナを舞台に奇妙な登場人物たちが織りなす、夢を題材にしたヒューマンな喜劇。サラエボ出身のエミール・クストリッツァ監督が初めてアメリカを舞台に、アメリカン・ドリームとその行方を、不思議な感覚で描いた作品。脚本は監督のコロンビア大学映画学科での教え子デイヴィッド・アトキンスのオリジナル。それに監督が手を加えた。出演者もジョニー・デップ、フェイ・ダナウェイ、リリ・テイラー、ヴィンセント・ガロ、ディーン・マーティンらが異様な芸達者ぶりを見せる。特にフェイ・ダナウェイの変人ぶりには恐れ入る。演技と思えない本当に変な、でもきれいなおばさんだ。
 ストーリーだけ見ると悲惨だが、これはたぶん喜劇。滑稽という言葉がぴったりくる。簡単に言うと、難解な作品かもしれない。いわゆるアメリカン・ドリームのような誰もが抱く理想を努力を持って切り開く映画ではなく、途轍もない夢を追い続ける変人たちの映画だ。しかし、滑稽に見えるその夢も本人たちにとっては真剣そのもので、自分の夢に跳ね返してみたりする。はたしてボクが抱く夢とは何で、それは努力すれば叶う可能性のある現実的な夢なのか、無謀な超現実的な理想なのか。しかし、それがなんであろうと夢は夢。理想や目標とは違う。諦めなければいけない時もあるし、変人扱いされながら成し遂げて大英雄になる人もいる。そこに自分のポリシーや信念や自信が存在するかしないかが、問題だと思う。宝くじを夢と思う人もいるだろう。でもそれは自分で手に入れるような夢ではない。他力本願でない夢への邁進こそが美しいのだと思う。
 ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞している。ほかで言う監督賞にあたる。そこまで演出に秀でた感じがあるか微妙だが、ボクの好きな映画のひとつだ。わかりやすい映画が好きな方にはお勧めできない。この映画もどのジャンルに入れようか迷った。でも、やっぱり喜劇だと思う。これでもエミール・クストリッツァ監督の中では常識的でわかりやすい映画だと思うんだけどな。途中何度も挿入されるジョニー・デップのナレーションに言いたいことはすべて集約されている気がする。まあ、この登場人物5人は変人でいいのだと思う。ボクから見れば普通だ。

◎作品データ◎
『アリゾナ・ドリーム』
原題:Arizona Dream
1992年アメリカ・フランス合作映画/上映時間:2時間20分/ユーロスペース配給
監督:エミール・クストリッツァ/原作:デニス・ルヘイン/脚本:デイビッド・アトキンス, エミール・クストリッツァ/製作総指揮:ポール・R・グリアン/製作:クローディ・オサール, イヴ・マルミオン/音楽:ゴラン・ブレコヴィッチ/撮影:ヴィルコ・フィラチ
出演:ジョニー・デップ, ジェリー・ルイス, フェイ・ダナウェイ, リリ・テイラー, ヴィンセント・ギャロ

recommend★★★★★☆☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆

 第二次世界大戦前夜の1939年、戦火の迫るイタリアで、ユダヤ系イタリア人のグイドは、本屋を開業するために叔父を頼って友人とともに北イタリアの田舎町にやってきた。いつも笑顔を絶やさない陽気な性格の彼は、小学校の教師ドーラと駆落ち同然で結婚して息子ジョシュアをもうける。しかしジョシュアの5歳の誕生日、戦時色は次第に濃くなり、ついに戦火は彼らのもとに及んだ。北イタリアに駐留してきたナチス・ドイツによって、3人は強制収容所に送られてしまう。母と引き離され不安がる息子に対し、グイドは嘘をつく。「これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだ」。絶望と死への恐怖が支配する中で、前向きなグイドの明るさが家族に奇跡を起こす。
 美しい人生を自らの手で築き上げていく男を、ユーモア溢れる空想的な描写で表現。監督、脚本、主演を務めたロベルト・ベニーニは、90年代のチャップリンと称賛され、イタリア映画でありながらその年のアカデミー主演男優賞、脚本賞、外国語映画賞を受賞した。ニック・ノルティとトム・ハンクスの一騎打ちと下馬評で噂されてた主演男優賞は、コメディのセンスをリスペクトする映画人から圧倒的な支持を得て奇跡の受賞となった。
 この作品では、単なるドタバタではなく第二次世界大戦とナチスドイツの背景の裏でひとりの女を愛し、家族を心から守ろうとする男の生きざまを見せつけてくれる。冒頭からしばらくは、ベニーニのあり得ない大袈裟な喜劇ぶりが鼻につく。しかしそれは、後半どこまでも前向きに明るく振る舞う気質の伏線だったのだ。罪のない嘘の美しさ、それで子供の夢さえもひっくるめて守ろうとする姿は胸を打つ。本当はコメディではなく、ドラマだ。結末もドラマの悲惨さを湛えている。しかし、この映画はコメディ作品として称賛を与えるべきだと思う。嘘がクライマックス、真実として悲惨な結果をもたらす。しかし、ジョシュアはこの時代を、父のおとぎ話のような嘘を、一生のいちばん大切な時間として、振り返り、ストップモーションでハッピーエンドに見える結末に仕上げている。世界でいちばん温かい嘘だ。誰がこの嘘を責めるだろう。この映画での彼の嘘は初めただのホラだ。いつしかそこに愛のエッセンスを加えたことで最も美しい嘘になる。エンディング、大人になったジョシュアの振り返るたったひと言の呟きのようなナレーション、これがこの映画を完璧なものに変えた。恋すること、生きること、それに懸命になったグイドに世界中の人々が笑い涙した。はたして、こんな感覚になった映画が過去にあっただろうか。それだから、これは悲惨な映画ではなく、「人生は美しい!」と題するほど絶対の自信を持って描かれた愛の物語になっている。
 ベニーニの父はベルゲン・ベルゼン強制収容所で2年間を過ごしている。その辺は彼の演技に真実味を与えているし、ロベルト・ベニーニとニコラッタ・ベラスキはベニーニ全作品で共演をしている、実生活でも夫婦だ。ベニーニ夫妻とジョシュア役のカンタリーニは、撮影に入る前に実際に寝起きを共にして家族愛を深めた。第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は好きな映画として『ガンジー』や『シンドラーのリスト』とともに本作を挙げているのが素晴らしい。
 単なる愛を描いた映画ではなくそこに宗教、人種、民族、戦争、差別、教育、親子、夫婦、さまざまな人間の根源的な問題に喚起しようとする、哲学的な深みを持つ作品だ。ボクらの持つ生活や社会での悩みなど、「人生は美しい!」と言って、笑って泣いて吹き飛ばしてしまおう、と思える。

◎作品データ◎
『ライフ・イズ・ビューティフル』
原題:La Vita e Bella(英語タイトル:Life Is Beautiful)
1997年イタリア映画/上映時間:1時間57分/松竹富士・アスミックエース配給
監督:ロベルト・ベニーニ/脚本:ヴィンセンツォ・チェラーミ, ロベルト・ベニーニ/製作総指揮:マリオコトネ/製作:エルダ・フェッリ, ジャンルイジ・ブラスキ/音楽:ニコラ・ビオヴァーニ/撮影:トニーノ・デリ・トリ
出演:ロベルト・ベニーニ, ニコレッタ・ベラスキ, ジョルジオ・カンタリーニ, ホルスト・ブッフホルツ, ジュスティーノ・ドゥラーノ

recommend★★★★★★★★★★
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

being john malkovich

 クレイグ・シュワルツは路上などで人形使いをしている、妻ロッテもペットショップに勤めているが、生活できるほどの収入がない。ある日、クレイグはこれでは生活できないと、定職に就くべく新聞の求人欄を広げ、マンハッタンのビルの7階と1/2にある会社、レスター社に就職する。同僚の美人OLのマキシンに一目惚れした彼は、彼女をくどくが相手にしてもらえない。そんな時、会社でファイリングをしていたクレイグは落とした書類を拾うときに意味ありげなドアをキャビネットの裏に発見する。恐る恐る入っていくと、そこは有名俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中につながっていた。15分間だけ入れてそのあと高速道路の側道に落ちるという妙な体験だった。クレイグはそれを使ってマキシンと商売を始め、次々と客をマルコヴィッチの穴に入れていく。が、それに気付いたマルコヴィッチ本人がそれを知ってしまうのだ。ジョン・マルコヴィッチは会社に押し掛け自分で自分の脳に入って行った。そこから事態はややこしくなっていった。ロッテがその穴に入り、男としてマキシンと性体験して子供まで作ってしまったりと、15分以上とどまれる術を見つけたクレイグも、マキシンとセックスをする。どんどんエスカレートしていく3人。結果、どうにもならなくなったクレイグは元の人形使いに戻り、マルコヴィッチはねじれた世界へ突入していくのであった。
 俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中に入るという、奇想天外なコメディー。監督はこれがデビューのスパイク・ジョーンズ。脚本・総指揮もこれがデビューのチャーリー・カウフマン。出演は自分を演じるジョン・マルコヴィッチ、クレイグをジョン・キューザック、ロッテをのキャメロン・ディアス、マキシンをキャスリーン・キーナーが演じる。2000年ゴールデン・サテライト賞作品賞とキャスリン・キーナーが最優秀助演女優賞を受賞し、アカデミー賞にもノミネートされた。
 どこからこんな発想が出てくるのだろうというくらい度肝を抜かれた。ジョン・マルコヴィッチが自分を演じ、破滅していくという展開もとても意外だ。もう、とにかくジョン・マルコヴィッチが自分の脳に入って行った時のおかしいことおかしいこと、声をあげて大笑いした。
 ただ、話自体は支離滅裂だし、本人が自分の脳に入ることがどういうことかを考えだしたら、変になってくる。そんなことを考えずに笑えばいいのだ。ただ、そこから生まれた結果には少々考えさせられた。そういう世界を体験した3人が普通に戻ることにしたこと、自分の脳に入ってしまったジョン・マルコヴィッチは違う人生を送ることになってしまったこと。この話はあり得ないが、考えられないシチュエーションに置かれると、人生が狂ってしまうことがあることを言っているような気がする。設定があり得ないだけだ。そして15分だけなら超有名人になってみたいという人間の欲望を如実に表している点も興味深い。主人公3人はこれを別の道具に使ったがお金を払って入りに来た客は単なる興味本位だ。自分だったらマルコヴィッチになったら何をしただろうか、とか考えると面白い。できればボクはスティーブン・ドーフの方がありがたい。いや、スティーブン・ドーフの恋人がいいかも。
 人形の中に魂を込めていた主人公が、別の容れ物を見つけた。そして、最終的にはもともとの人形に魂を吹き込むことに戻っていくのである。人を操る、これは難しい。結局は容れものが違っただけで人形であろうがマルコヴィッチであろうが、クレイグはクレイグでしかありえなかったのだ。奥が深いと言えば深い。監督はこの映画にどんなテーマを込めたのだろう。話が奇抜なだけに、ただの狂った映画になってしまいがちな設定なのに、ここからヒューマンさを引き出したのには恐れ入る。人形使いの主人公でなければ意味がなった作品だと思った。のちに『アダプテーション』という秀作も撮る。まだまだ40歳前、これからが楽しみだ。

◎作品データ◎
『マルコヴィッチの穴』
原題:Being John Malkovich
1999年アメリカ映画/上映時間:1時間52分/アスミック・エース配給
監督:スパイク・ジョーンズ/脚本・製作総指揮:チャーリー・カウフマン/製作:マイケル・スタイプ, サンディ・スターン, スティーブ・コリン, ヴィンセント・ランディ/音楽:カーター・パーウェル/撮影:ランス・アコード
出演:ジョン・キューザック, キャメロン・ディアス, キャスリン・キーナー, ジョン・マルコヴィッチ, チャーリー・シーン

recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆

the fisher king

 過激なトークが売りもののニューヨークの人気DJジャック・ルーカスは、皮肉と毒舌、過激なテンポの速いトークが売りの男。それが番組で恋の悩み相談を持ちかけたリスナーによって失意のどん底に突き落とされた。「ヤッピーたちを殺せ!」というジャックの言葉を真に受けて、レストランで銃を乱射、7人の犠牲者を出して自らも死に、一躍ジャックの悪影響が報道されたからだ。3年後、落ちぶれたジャックは恋人アンの経営する下町のビデオショップで、居候生活を送っていた。ある日、泥酔したジャックは暴漢たちに襲われ、危うい所をホームレスのバリーという奇妙な男に救われた。バリーの寝ぐらになっているボイラー室にかくまい、壁に描かれたは中世の城と騎士、馬に乗る悪魔の赤い騎士を目にした。バリーは聖杯を探しており、それはニューヨークの大富豪の邸宅にあると言う。そして赤い騎士の妨害を振り切り、ジャックがその聖杯探しの力になる希望の騎士なのだと興奮して言うのだ。バリーは頭のいかれた男だとその場を逃げ去ったジャックは、ある日ビルの管理人から、バリーが昔、大学教授であり、レストランで食事中に銃の乱射により愛妻を殺された過去があることを知る。バリーもまたジャックを失脚させたあの事件の犠牲者だったのだ。忌わしい罪の意識を思い起こしたジャックは、事件以来すっかり人が変わってしまったというバリーに罪の意識を感じ、憧れの女性、リディアとの仲をとりもつことにする。何とか2人を引き会わせ、アンと4人で食事をするまでにこぎつけたジャック。バリーの一途な気持ちに孤独なリディアも心を動かされた。だがその夜、バリーの目の前に赤い騎士の悪夢が現れ、逃げるバリーをいつかの暴漢が再び襲う。そうとは知らないジャックは爽快感で一杯、仕事を再開することに。だが、バリーの事故の知らせを受けて病院に向かうと、そこには包帯でぐるぐる巻きにされ、精神症が再発して空を見つめるだけのバリーの姿が。バリーの回復のためには、あの聖杯を手に入れるしかないと、ジャックは富豪の屋敷に忍び込む。命からがら、聖杯を手に入れたジャックはバリーのもとへ。聖杯を手にした喜びにバリーは一気に回復、病中も看護を続けたリディアとの愛も叶えられる。やっと人間らしい心を取り戻したジャックは、バリーとニョーヨークの夜空を見上げた。
 タイトルの「フィッシャー・キング」は聖杯伝説の「漁夫王」から来ている。中に登場する聖杯のエピソードをうまくタイトルと絡み合わせている。監督は独特のユーモアを持った映像表現豊かなテリー・ギリアム。彼がラブロマンスを描くことは珍しく、奇想天外なアイディアや視覚効果の優れたファンタジーが魅力と言える。だが、彼が恋愛を語ってもシニカルでユーモアが溢れている点は変わらない。彼らしい映画だと思う。バリーの恐怖の象徴として現れる甲冑に身をまとった巨大な赤い騎士の登場するシーンや、バリーの心象風景として表現される群衆がワルツを踊るシーンは監督の真骨頂とも言える。ダンスのシーンでは1000人のエキストラを使っていて壮観だ。彼の秀作『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』に負けない出来だと思う。むしろボクはこの映画の方が好きだ。
 俳優陣も素晴らしく、この個性豊かなジャック、アン、バリー、リディアがそれぞれ食われ合うことなく独特のバランスでストーリーを盛り上げる。いちばん地味な印象を受けるアンを演じたマーセデス・ルールが他3人に較べ奥の深い豊かな表現力でアカデミー賞の助演女優賞を受賞している。でも、ボクはやはりバリーを演じるロビン・ウィリアムズとリディアを演じるアマンダ・プラマーの怪演に拍手を送りたい。このふたりのハイテンションぶりは並ではない。ロビン・ウィリアムズの全裸で踊るシーンはハイテンションの極みである。でもそれに負けてないアマンダ・プラマーの破天荒ぶりも見ものである。この映画では、4人の喜び、悲しみ、さまざまな喜怒哀楽の交錯の中で、最後は登場人物の誰もが幸せになる、ハッピーなおとぎ話だ。この映画ほどピュアでハッピーで奇を衒ったおとぎ話は皆無であると言いたい。元来、ただドタバタするコメディは苦手なボクだが、こんなハートウォームなコメディならいくらでも観ていたい

 
 ◎作品データ◎
『フィッシャー・キング』
原題:The Fisher King
1991年アメリカ映画/上映時間:2時間17分/コロンビア映画・トライスター映画配給
監督:テリー・ギリアム/製作:デブラ・ヒル, リンダ・オブスト/脚本:リチャード・ラグラヴェネーズ/音楽:ジョージ・フェントン/撮影:ロジャー・プラット
出演:ジェフ・ブリッジス, ロビン・ウィリアムズ, アマンダ・プラマー, マーセデス・ルール, マイケル・ジェッター
 
recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆