Archive for 10月, 2019


こんばんは。

今日は、11月9日から名演小劇場で公開される映画『ラフィキ:ふたりの夢』をご紹介します。

 

【INTRODUCTION】

ケニアのカラフルな最新カルチャーにのせて、自由な恋愛と幸せな未来を夢見るふたりを描く感動作!

2018年、カンヌ国際映画祭史上初のケニアからの出品(ある視点部門)という快挙を成し遂げると共に、トロント、シカゴ、ロンドン、ロッテルダムなど100以上もの映画祭に出品され、世界から熱く支持されたにもかかわらず、本国ケニアでは観ることのできない作品がある。ふたりの女性が恋に落ちる物語であることから、いまだ同性愛が違法とされ、禁固刑に処されることもあるケニアで上映禁止となったのだ。のちに、米アカデミー賞外国語映画賞へのエントリーの条件を満たすために、ナイロビのある映画館で2018年9月23日から9月30日の1週間だけ上映が決定。「長蛇の列」「チケットを求める電話が殺到」というニュースがSNSを飛び交った話題作が、ついに日本にもやってくる。

看護師になるのが目標のケナは、古いしきたりにとらわれた周囲の人たちに満たされない想いを抱えていた。両親は離婚し、ナイロビで母と暮らしていたが、国会議員に立候補した父のことは応援している。そんな時、父の対立候補の娘で自由奔放なジキと出会う。互いに強く惹かれたふたりは、「私たちは本物になろう」と誓い合う。だが、友情が愛情へと変わり始めた時、ふたりはこの恋は命がけだと知る。

カンヌをはじめ100以上もの映画祭に出品され、世界から暑く支持されている話題作。だが、いまだ同性愛が違法とされるケニアでは上映禁止となり、のちに1週間だけ限定公開された時は、「長蛇の列」というニュースがSNSを飛び交った。

監督は、デビュー作でアフリカのアカデミー賞を獲得、今最も輝く才能と絶賛されるワヌリ・カヒウ。ミュージシャンのサマンサ・ムガシア、監督にも進出したシェイラ・ムニヴァと、多彩な女優たちが競演。

音楽、ダンス、ファッション、アート-ポップでカラフルなアフリカンカルチャーにのせて、人生を豊かにする人と人の絆を描く感動作。

(引用:公式ホームページ http://senlis.co.jp/rafiki/

【DATA】

『ラフィキ:ふたりの夢』

 2018年製作/ケニア・南アフリカ・フランス・レバノン・ノルウェー・オランダ・ドイツ合作/82分/原題:Rafiki

出演:サマンサ・ムガシア/シェイラ・ムニヴァ/ジミ・ガツ/ニニ・ワシェラ/デニス・ムショカ/パトリシア・アミラ/ネヴィル・ミサティ

監督:ワヌリ・カヒウ/製作総指揮:ティム・ヘディントン/製作:スティーブン・マコヴィッツ/原案:モニカ・アラク・デ・イェコ/脚本:ワヌリ・カヒウ, シエナ・ベス/撮影:クリストファー・ウェセルス/製作:Big World Cinema、Afrobubblegum/配給:サンリス© Big World Cinema.

【IMPRESSIONS】

この映画を鑑賞した直後は、主人公たちが純粋無垢な自分たちの想いを貫き、当人たちではどうしようもない環境を乗り越えていくお手本のような恋愛映画という印象を受けた。なるべく先入観なしに観たかったので、ケニアの社会的背景や映画事情はわかっていない状況で観に行った。主人公たちの胸をえぐられるような苦しみや絶望感は、こみあげるような共感と感動をクレジットどおり呼び起こさせるものだった。

ケニアのLGBTに対する現状は、思っていたよりも壮絶で、同性愛行為自体が犯罪、映画はカンヌに選出されたが、ケニアでは上映禁止となった。ケニア映画検閲委員会(KFCB)は、同性愛のテーマとケニアでレズビアン主義を促進するという明白な目的のために映画を禁止し、違法であるとしてケニアの人々の文化と道徳的価値を傷つけると結論づけて上映を禁止した。2014年にもナイロビの芸術集団によって作られた東アフリカのLGBTQコミュニティについてのオムニバス映画が、同性愛映画として上映中止になっている。ナイロビでの1週間だけの上映が、米アカデミー賞外国語映画賞へのエントリーの条件を満たすためとなっているが、SNSネット上で上映中止に反対する声が挙がって大論争を巻き起こしたという経緯も影響しているようだ。実際に、映画館で長蛇の列ができ、チケットを求める電話が殺到したということで、ひとつの映画が、ケニア社会を変えていったとも言える。

ケニアでは現実にはありえなさそうだが、唯一父親が傷ついた主人公ケナを抱きしめるシーンには救われた。看護師になる夢を果たしたケナが知り合いの入院患者から激しい罵倒を浴びせられてもさらりとかわす場面では成長を感じさせるし、ラストシーン、ジキの傷が多少なりとも癒され未来を想像させるあたりも観終わったあとの後味は悪くなかった。
ただ、この映画の上映時間は82分と短い。細かいディテールの部分でいえば、ストーリーの深さの割に、どのように傷ついたか、どのように愛し合っていたかの表現が浅く、エピソードのつなぎも丁寧さが足りないように感じた。ストーリーの内容が濃いので、細かい部分に丁寧さを盛り込んで100分近い作品にしても長くは感じないと思った。冒頭、ケナがジキに惹かれていくまでが丁寧だっただけに、サッカーのシーンから雨が降り秘密の場所へと誘うあたりは陳腐な印象も残るし、ゲイ男性の若者の描き方にも雑な印象を受けた。

細かい点は抜きにしても、この映画は社会的問題提起の映画として、クレジットもされているし、レビューもその視点で書かれているものが多い。だとすれば、ケニアの実情を知っておく必要はあるように思う。

「ラフィキ」とはスワヒリ語で「友達」という意味らしい。これは、友達のような恋がしたいという意味ではなく、パートナーや恋人を紹介するときにケニアの人々は「友達」と表現して関係性をぼかすことがよくあるということに由来していると監督は言っている。それだけ、周囲に認められることが難しいことをタイトルに込めたというわけだ。ケニアに生まれていたら自分はどうなっていたんだろうと思うといたたまれなくなるが、「普通に恋がしたい」「本当の自分でいたい」「周囲に認められたい」ことに高さの差異はあれ、ハードルが高いことは日本でも同じ。LGBT目線でいえば、ケナやジキの孤独感をいろんな方に映画を観て知っていただきたいと思う。

予告編:https://www.youtube.com/watch?v=I5ITjFkBmBc

名演小劇場HP:http://meien.movie.coocan.jp/

こんにちは。

今日は、10月12日から名演小劇場で公開される映画『バオバオ フツウの家族』をご紹介します。

 

f:id:nagoyalgbt:20191007152713j:plain【INTRODUCTION】

 

赤ちゃんは誰の子? 誰が育てる? さまざまな問題を抱えながらも愛を信じ、新しい家族のカタチに向かって宇宙飛行士のような勇気で挑もうとする、ミレニアル世代の清新なLGBTQ映画

ロンドンの会社で働くジョアン(クー・ファンルー)と取引先の友人チャールズ(蔭山征彦)には、それぞれ画家シンディ(エミー・レイズ)と植物学者ティム(ツァイ・リーユン)という同性の恋人がいる。

4人はそれぞれの想いからシンディの子宮を借りた妊活に同意し、チャールズとティムの精液を採取してシンディの子宮に注入するのだが一向に妊娠しない。思い余った4人は病院での体外受精を決断する。ジョアンとシンディの卵子にチャールズとティムの精子を注入してできる二つの受精卵をシンディの子宮に戻して、男女の赤ちゃんを産み、男の子はジョアンたち、女の子はチャールズたちが引き取るというものだ。

順調そうに見えた矢先シンディは出血する。子供を奪われる悪夢にうなされるシンディのことが気がかりでジョアンは仕事で失敗をしてしまう。ロンドンであと1年がんばれば英国籍も取得できるというジョアンにとっては大きな痛手だ。そんなところへチャールズが小切手をもって訪ねてくる。病院から戻ったシンディは偶然それを見つけ、逃げるように台湾に戻り、幼なじみで好意を寄せてくれている警官タイ(ヤン・ズーイ)を頼る。一方、チャールズはティムに、赤ちゃんが自分たちの子供になることを伝える、手を打ってきたと…。

(引用:公式ホームページ http://baobao.onlyhearts.co.jp/

 

 

【DATA】

 

『バオバオ フツウの家族』

2018年製作/台湾/97分/原題:愛的卵男日記/英題:Baobao

出演:エミー・レイズ/クー・ファンルー/蔭山従彦/ツァイ・リーユン/ヤン・ズーイ

監督:シエ・グアンチェン/製作:リン・ウェンイー/脚本:デン・イーハン/製作:Helsinki-Filmi/配給:オンリー・ハーツ、GOLD FINGER/後援:台北駐日経済文化代表処台湾文化センター

 

【IMPRESSIONS】

2018年秋に台湾で公開された本作は、それに先立ち同年8月から9月に開催された「第五回台湾国際クイアフィルムフェスティバル」のオープニング作品として上映され、海外では、スペインとロスアンゼルスの映画祭で上映されているよう。

この物語は、台湾で新人登竜門としていちばん大きな脚本賞のコンペから生まれた。2015年、これに応募した国立台湾大学大学院に在学中のデン・イーハンの脚本『我親愛的遺腹子』が優秀賞を獲得し、それがプロデューサーのリン・ウェンイー林文義の目にとまり、映画化が進んだとのこと。リン・ウェンイーは同性愛に詳しいシエ・グアンチェンを監督に起用し製作を開始したという経緯があるらしい。

この映画を単なる愛に関する現実との問題ととらえるか、問題提起の映画として捉えるかによって、この映画の評価もレビューも変わってくる。これを書くにあたって、同性愛者の当事者や非当事者の感想や著名人のコメントに目を通したが、当事者・非当事者関係なく賛否両論、特に価値観や差別感もさまざまで愕然とした。そしてまだまだわれわれ当事者には生きにくい社会であることを痛感した。ネタばれになるので詳しいところまで書けないのが歯がゆいが、法的に家族と認められないと分娩室に入れないなど制度的に同性愛当事者では認められないシーンでは、不条理なルールに腹立たしささも感じたし、登場人物の心の痛みに共感しすぎてしまい泣けてしまって冷静に観ることができない部分もあった。愛のあり方、家族としての価値観を観る側として考えるには素晴らしい作品であるし、映像の美しさ音楽の使い方も秀逸、とりわけ主人公4人の細かい心理描写を絶妙に表現する演技には脱帽。

しかし、この映画を社会的な問題提起として捉えるとしたら、評価は変わってくる。今年5月に同性婚が合法化されアジア全体から見てもLGBTに関して寛容度の違う台湾を現在の日本に置き換えることはできないし、ストーリーの設定自体を、荒唐無稽・絵空事・夢物語と捉えられてしまっておかしくない。

ただ、今後を含め、LGBTに関する社会のありようやこれからの取り組み、当事者・非当事者を問わず個々人の高い意識の持ち方や覚悟や価値観を真正面から受け止めていく契機としては充分に意味が見出せる映画ではあった。

LGBTに生まれるということは、多くの場合、親を動揺させ、将来に不安を伴い、理解をされにくい立場にあるから、本当の自分の気持ちを認めてほしい、知ってほしいという欲求が非当事者に較べ多いと感じている。相当リベラルな価値観を持つ親の元に生まれなければ、のびのびと幼少時代を送ることができない。その中で自分自身を受け入れきれずに大人になってしまった当事者にとっては、生きづらさを感じずにはいられないし、パートナーや周りの人たちへの承認欲求は自動的に強くなってしまう。存在が可視化されていないことはそこに由来すると思っている。できれば、それを踏まえたうえでこの作品を鑑賞していただきたいと感じた。

予告編:https://youtu.be/OaZOHoayVm4

名演小劇場HP:http://meien.movie.coocan.jp/

 

baobao.onlyhearts.co.jp

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