Archive for 9月, 2009


No.0076『ゴッホ』

 現代、クリスティーズでのゴッホの絵画オークション風景。一転、映画は過去に遡る。19世紀後期、オランダ・アムステルダム。画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは貧困と自らの画風の確立に向けての苛立ちに苦しみながらも、創造意欲に苛まれるように独特のタッチで自分の世界を描いていた。娼婦シーンへの想いゆえに均衡を欠いた熱愛弟テオはそんな彼を支え続けた。光と影、正と反のように互いに他の分身であるヴィンセントとテオの深い精神的連帯に余人の立ち入る隙はない。兄ビンセントはテオ宛ての手紙にあらゆることを綴る。一方、兄の存在は、テオの恋愛や結婚にも影響を及ぼす。一方、この頃、ヴィンセントは自分の魂の兄弟としてポール・ゴーギャン(ウラジミール・ヨルダノフ)を知る。二人はテオが画策して作った資金で南プロヴァンス地方へ旅行、絵画製作に励むが、ヴィンセントは生来的不安意識からか段々と奇行を繰り返すようになる。或る晩、娼婦の顔に黒の絵の具を塗りまくって興じていたヴィンセントをゴーギャンは止めに入るが、心を病んだビンセントは自らの耳を切り落としてしまう。ヴィンセントは病院に収容され、テオは彼を見舞う。退院後、ゴッホは再び絵画作りに没頭する。そして草の生い茂る黄金色の草原の真っただ中に画布を置いたヴィンセント。彼はしかし、画布には手をつけず、その場を立ち去ろうとした。一発の銃声。死を悼む葬列が、郊外に向けて歩みをたどる。墓の前で読み上げられる弔辞の不躾さ、偽善ぶりに傷ついたテオは、ひとりその場を脱け出した。彼の辿り着いた先もヴィンセントの絵の中のような草原だった。一年後、彼を追うようにテオも逝去したのだった。
 ロバート・アルトマン監督による、ゴッホの生涯を描いた作品。ゴッホの若き日々から、貧困と困窮の中で創作活動を続けつつなかなか世に認められないゴッホと、そんな兄を何かと励ます画商の弟テオとの、お互いへの思いやりと不思議な連帯を細やかに描き、そしてその死に至るまでを語ってゆく伝記映画だ。脚本はジュリアン・ミッチェル、撮影はジャン・ルピーヌ、音楽はガブリエル・ヤーレが担当している。ゴッホを演じるティム・ロスのほか、ポール・リース、ウラジミール・ヨルダノフなどが出演している。
 噂によるとこの映画でゴッホ役を演じたティム・ロスが、実際にのめり込み過ぎて精神病寸前まで行ったらしい。同じゴッホを描いた作品に、『炎の人ゴッホ』 があるが、こちらは未見。こちらはカーク・ダグラスがゴッホを演じ、ゴーギャンをアンソニー・クインが演じている。また観賞してみようと思っているが、『ゴッホ』の方は初めはゴッホ没後100年後の1900年にテレビドラマ用に製作、好評だったため改めて映画として公開された。ボクは本にもなっている兄弟の手紙のやり取りを読んでいたし、ゴッホ展も開催されるたびに見に行っているから余計に興味津々だった。邦題は『ゴッホ』だが、原題は“ヴィンセントとテオ”となっていて、兄弟を主軸にしている。ヴィンセントだけでなく弟の最期も描かれている。兄の死後、同じように精神を患い命を落とす最期は悲痛。そこに割って入るようにヴィンセントにかかわってくるゴーギャンの存在は、また興味深い。このゴッホ役を見事に演じぬいたティム・ロスの迫力は見事。耳を切り落とすくだりは特に衝撃的だ。
 兄弟の墓がオヴェールに並んで存在する。なんとも哀しい風景に見える。映画は全体を通し、色彩が印象派の絵画のようだ。生前、ゴッホの作品はほとんど評価されなかった。あまりにも悲劇的な兄弟の人生だ。永遠に残る芸術を生み出した功績の替わりに払った代償は大きすぎる。天国で、何の気兼ねもなく自由に絵を描いてくれているといいのだけれど。

◎作品データ◎
『ゴッホ』
原題:Vincent and Theo
1990年イギリス・フランス・オランダ合作映画/上映時間:2間20分./松竹富士・アルシネテラン配給
監督:ロバート・アルトマン/脚本:ジュリアン・ミッチェル/製作総指揮:デイヴィッド・コンロイ/製作:ルディ・ベーケ, エマ・ハイター/音楽:ガブリエル・ヤーレ/撮影:ジャン・ルピーヌ
出演:ティム・ロス, ポール・リース, ウラジミール・ヨルダノフ, イプ・ヴィンガールデン・ナン, アドリアン・ブリン

recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

  

 自閉症の知的障害のために7歳の知能しか持たないサムは、スターバックスで働きながら一人で愛娘ルーシーを育てていた。ビートルズのことなら何でも知ってる、好きな映画の台詞ならスラスラと暗唱できる、そして周囲の人を色で識別する共感覚の才能を持っている。母親はルーシーを生むとすぐに姿を消してしまったが、2人は施設の仲間、イフティや切手が趣味のブラッド・折り紙が得意なジョー・ちょっと陰謀妄想の入ってるロバートたちの協力、隣人の元ピアニストで外出恐怖症のアニーにも助けられながら、幸せに暮らしていた。しかし、ルーシーが7歳になる頃、その知能は父親を超えようとしていた。娘は自分が父よりも成長してしまうことに苦悩していく。そんなある日、サムは家庭訪問に来たソーシャルワーカーによって養育能力なしと判断され、ルーシーを施設に入れ、里親に預けるべきだと判断され、奪われてしまう。ルーシーを取り戻したいサムは、敏腕で知られる女性弁護士リタのもとを訪ね、裁判で戦うことを決意する。
 『アイ・アム・サム』は、2001年に公開されたアメリカ映画。知的障害を持つ父親と、幼い娘との純粋な愛をビートルズの曲とともに描いた感動作。日本での公開は2002年6月8日。父親役のショーン・ペンがアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。娘役のダコタ・ファニングは放送映画批評家協会賞、ゴールデン・サテライト賞、ラスベガス映画批評家協会賞、ヤング・アーティスト賞を受賞し、映画俳優組合賞の助演女優賞にも最年少でノミネートされた。日本アカデミー賞の外国作品賞にモノミネートされた。
 涙なしでは見れない素晴らしい作品が誕生。かけがえのない娘・ルーシーを純粋に愛し優しく見守る知的障害者・サムをショーン・ペンが熱演。サムのひたむきな姿に、仕事人間だったエリート弁護士リタも大切なものが何か気付かされるが、そのリタを演じるのはミシェル・ファイファー。父親の障害を理解し、全面的に受け入れ父親を愛するルーシーにダコタ・ファニング。もう名子役の代表のようになっている。
 親子の絆を描いた作品は数多くあるが、親子の無償の愛の素晴らしさをこんなに爽やかにピュアに描いている映画は他にないかも。なんと言っても『レインマン』のダスティン・ホフマンにも負けずとも劣らないショーン・ペンの演技は必見。脇を固めるダイアン・ウィーストやローラ・ダーンの存在もいい味を出している。『コリーナ、コリーナ』で監督デビューし、『グッドナイト・ムーン』や『ストーリー・オブ・ラブ』で共同脚本を手掛けてきたジェシー・ネルソンが、製作・脚本も務めての監督第2作。
 このころのショーン・ペンは演技者として乗りに乗っていて、敢えて難役に挑戦することが多かった。でも、観ていて安心で映画の品質は保証されたようなもの。そして全編を彩るビートルズのナンバーが作品をよりドラマティックに見せている。歌曲はシェリル・クロウ、ベン・フォールズら豪華アーチストがカバーしていたりする。サムの語るビートルズ・メンバーの逸話の数々。もうすでに何本もの映画で演技力を証明済みの小役ダコタ・ファニング。彼女の愛らしさ、頭の良さ、演技力がこの作品の魅力を増してる。敏腕弁護士リタを演じるミシェル・ファイファーとルーシーの里親役ローラ・ダーンの演技は多少過剰気味だが、そこはメリハリで気にならない。作品はそのテーマの大きさに押し潰れることなく、素晴らしい作品に仕上がっている。
 冒頭、ルーシーのはサムのことを気遣って、読める字を読めない振りをするシーンからはじまる。泣かされる準備をさせられる。そのあと畳み掛けるようにルーシーの靴を買うためにサムとサムの仲間たちがお金を出し合うシーン。映画として言いたいことは、「障害者の親の資格と、娘の幸せ、親子の絆」か。ただ知的障害者が主人公であることは、設定にすぎず、子を育てるために障害のある人に限定された事ではない。子を持つどの親にも言えること。結局、この作品で親の資格で何よりも大事なのは、子を想う愛の大きさということで結論付けている。公では子供を育つために必要なことは、子を養うだけの経済力であり、子を正しい道に導いていくだけの知能。確かに必要なものだ。だが絶対でない。この映画を観ていると、愛によって築かれた親子の絆こそが絶対だと思わせてくれる。そしてまた、現代社会に失われた大切な想いを持ち得る男によって周囲の者たちが影響され、癒されていくという、さわやかで後味のよい映画に仕上がっているのがいい。エンディング、里親のランディがルーシーをいちばん愛しているのは、父サムであることに気づき、サムの元に連れ戻しやとき「私は裁判で証言しようと思ってたの、誰よりも彼女を深く愛せると、でも言えないわウソになるもの」と言ったランディにサムが「ルーシーの絵の赤い色は、きっと君のことだよ」と言ったシーンは秀逸。

◎作品データ◎
『アイ・アム・サム』
原題:I Am Sam
2001年アメリカ合作映画/上映時間:2間13分./松竹・アスミックエース配給
監督:ジュシー・ネルソン/脚本:クリスティン・ジョンソン, ジェシー・ネルソン/製作総指揮:マイケル・デ・ルカ, クレア・ラドニック・ポルスタイン, デヴィッド・ルービン/製作:マーシャル・ハースコヴィッツ, エドワード・ズウィック/音楽:ジョン・パウエル/撮影:エリオット・デイヴィス
出演:ショーン・ペン, ミシェル・ファイファー, ダイアン・ウィースト, ダコタ・ファニング, ローラ・ダーン

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆

 

 アイオワ州の田舎町エンドーラ。生まれてから24年、この退屈な町を出たことがないギルバートは、重度の知的障害を持つ自閉症の弟アーニー、夫の自殺から7年間家から出たことがない過食症で250kgの母親、2人の姉妹の面倒を、大型スーパーの進出で売れなくなった食料品店で働きながら見ていた。毎日を生きるだけで精一杯、しかし日々の生活は退屈なものだった。彼は気晴らしに店のお客で、中年の夫人ベティ・カーヴァーと不倫を重ねていた。ある日トレーラー・ハウスで祖母と旅を続ける少女ベッキーが現れる。途中でトレーラーが故障し、ギルバートの町にしばらくとどまることになる。ベッキーの出現によりギルバートの疲弊した心にも少しずつ変化が起こっていった。そんな時、ベティの夫が死亡し、ベティは子供たちと町を出た。ギルバートは家族を捨てて彼女と町を出ていくことはできなかった。アーニーの18歳の誕生パーティの前日、ギルバートはアーニーを風呂へ入れさせようとして、いらだちから暴力を振るってしまう。いたたまれなくなって家を飛びだした彼は、ベッキーの元へと向かった。その夜、彼は美しい水辺でベッキーに優しく抱きしめられて眠った。その翌日、車の故障が直ったベッキーは出発した。華やかなパーティも終わり、最愛のアーニーが18歳を迎えた安堵からか、ボニーは2階のベッドで眠るように息を引き取る。母の巨体と葬儀のことを思ったギルバートは母親を笑い者にはさせないために、家に火を放つのだった。一年後、ギルバートはアーニーと、町を訪れたベッキーのトレーラーに乗り込む。姉や妹も自分の人生を歩きだした。アーニーが自分たちはどこへ行くのかと尋ねると、ギルバートは「どこへでも」と答えた。
 肉体的、精神的に傷つきやすい家族を守って生きる青年の姿を通して、家族の絆、兄弟の愛憎、青春の痛み、そして未来への希望を描いた心優しきヒューマン・ドラマ。劇作家だったピーター・ヘッジス初の小説を本人自身が脚色し、『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』のラッセ・ハルストレムが監督をした。出演はギルバートにジョニー・デップ、ベッキーにのジュリエット・ルイス、アーニーにレオナルド・ディカプリオが扮している。レオナルド・ディカプリオはこの作品でアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた。原題の“What’s Eating Gilbert Grape”は、「ギルバート・グレイプを困らせるもの」というような意味。原題の方が内容をよく顕しているわけだ。
 何といっても19歳だったディカプリオの自閉症の演技に圧倒される。ほのぼのとした話の中で強い存在感を見せつける。ディカプリオと母親の絶大な存在感の中で、ロマンティックでさわやかなギルバートとベッキーのピュアな恋愛が活かされてゆく。このあと、人気を不動のものにしてゆくディカプリオは演技派でありながらアカデミー会員に嫌われるような妙な自尊心と作品選びをしてゆくことになるが、このときは名子役と言える、他の人にはできない演技だったろう。『タイタニック』から彼は何かが変わってしまったように感じる。彼自身の演技ではないのかもしれないけれど。実際に自閉症の演技と言うと『レインマン』のダスティン・ホフマンや『アイ・アム・サム』のショーン・ペンの名演が思い浮かぶが、この年齢でこのふたりに引けを取らない演技だと思う。そして、いるだけの存在感で他を圧倒しているのが母親役のダーレーン・ケイツ。彼女は原作・脚本のピーター・ヘッジズが見つけて来た逸材だ。その圧倒的なふたりの存在感の中で、ごく普通のしかしいろいろな感情を抱えた好青年とその相手役は霞みがちになりそうなところを、本当はジョニー・デップとジュリエット・ルイスがピュアな作品にまとめているのだとい思う。過剰演技に隠れた確かな演技に評価をしたい。
 過食症の母、自閉症の弟、それを健気に支える青年、という設定からして、大体のストーリーは予測がつく。そこに、旅の途中に車の故障で少女が登場すれば、ストーリー展開のスリリングさはない。そこに求められるのは、それぞれの愛にどういう形で踏み込み、将来を形作っていくか、だ。夫の自殺後、外界から一切を切り離し、自分の殻に閉じこもって過食症になる母、笑われることを知りながら息子のために十何年振りかに家を出てみる母、そして、静かに死んでゆく母、その生き方を見ながらギルバートは自分の道を決めたのだと思う。父親が死んでから17年、アーニーも17歳、この変貌から得たもの、見つけた未来、それが、この映画のすべてだと思う。

◎作品データ◎
『ギルバート・グレイプ』
原題:What’s Eating Gilbert Grape
1993年アメリカ映画/上映時間:1間58分./シネセゾン配給
監督:ラッセ・ハルストレム/原作・脚本:ピーター・ヘッジズ/製作総指揮:アラン・C・ブロンクィスト/製作:メイア・テペル, バーティル・オールソン, デイヴィッド・マタロン/音楽:アラン・パーカー, ビョルン・イスファルト/撮影:スヴェン・ニクヴィスト
出演:ジョニー・デップ, ジュリエット・ルイス, メアリー・スティンバーゲン, レオナルド・ディカプリオ, ダーレーン・ケイツ

recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

  

 1963年9月のある日、詐病によって刑務所から逃れるためにオレゴン州立精神病院に入院してきたランドル・P・マクマーフィ。向精神薬を飲んだふりをしてごまかし気狂いを装っていた。マクマーフィは初めてディスカッション療法に参加したが、婦長の定めた病棟のルールに片っ端から反抗していく。グループセラピーなどやめてテレビでワールドシリーズを観たいと主張し、他の患者たちに多数決を取ったりなどする。また他の患者を無断で船に乗せて、海に出たりもする。こうした反抗的な行動が管理主義的な婦長の逆鱗に触れ、彼女はマクマーフィーが病院から出ることが出来ないようにしてしまう。マクマーフィーはチーフが実際はしゃべれないフリをしていることに気づく。クリスマスの夜、マクマーフィーは病棟に女友達を連れ込み、酒を持ち込んでどんちゃん騒ぎをやる。その後、逃げ出すつもりだったのだが寝過ごしてしまう。翌日、乱痴気騒ぎが発覚し、そのことで婦長から激しく糾弾される。そのショックでマクマーフィーにかわいがられていた若い男性患者が自殺してしまう。マクマーフィーは激昂し、彼女を絞殺しようとする。その後、婦長を絞殺しようとしたマクマーフィーは他の入院患者と隔離される。マクマーフィーは病院が行ったロボトミーの治療によって、もはや言葉もしゃべれず、正常な思考もできない廃人のような姿になって戻ってくる。数日後、1人ひそかにその帰りを待つチーフのもとへ、植物人間と化したマクマーフィが戻ってきた。マクマーフィをこのままここに置くにしのびないと感じたチーフは、枕を押しつけ彼を窒息死させた。チーフにとってそれが最後のマクマーフィに対する友情の証しだった。明け方、窓をぶち破り、祖先の愛した大地を求めて走り去るチーフの姿が、逆光の朝日の中にあった。
 原作はケン・キージー。邦題が当初「郭公の巣」であったが、後に映画のタイトルに合わせて改題され、邦訳が「カッコーの巣の上で」というタイトルで富山房から出版された。なお、原作での主人公はチーフであり、彼の視点から物語は描かれている。製作はソウル・ゼインツとマイケル・ダグラス、監督はのミロシュ・フォアマン、脚本はローレンス・ホウベンとボー・ゴールドマンの共同。出演はジャック・ニコルソン、ルイーズ・フレッチャー、ウィリアム・レッドフィリルズなど。なおゴールデン・グローブ賞6部門、アカデミー賞5部門を受賞した。
 精神異常を装って刑務所での強制労働を逃れた男が、患者を完全統制しようとする精神病院の看護婦長から自由を勝ち取ろうと試みる、そんな映画化に至るまでに監督は、非常に苦難の道のりを辿ったと話している。主人公マクマーフィは絶対権力を誇る婦長ラチェッドと対立しながら、入院患者たちの中に生きる気力を与えていく。当初の邦題、映画化で決まった邦題、いずれもすぐに意味を理解することは難しいが、原題は最後にチーフという名の患者が独りで自由を求めて、精神病を患う人の集まる精神病院から脱出することが主題だと思う。もともとの由来はマザー・グースの詩。またカッコーの巣“Cuckoo’s Nest”は、“精神病院”の蔑称のひとつである。“Cuckoo”自体“まぬけな”とか“気の狂った”という意味がある。ジャック・ニコルソンは、ボクが知る限り若いころの演技ではこの作品がいちばん優れているように思う。彼は患者の人間性を取り戻すべく、病院側に挑戦する。この映画は自由と抑圧の問題性の問いかけと捉えるのが簡単だ。しかし、もっと深いものがあるように思う。車が水平線から現れ病院についた箇所、婦長が病棟に入ってくるのに鍵を開け鉄の扉を開け鉄格子の見える病棟に入ったくだり、順番に薬を飲むときのシーン、電気ショックのシーン、バスに乗って街中を走っているときのみんなの表情、釣船に乗り出掛けて行くとき、帰ってきたときの表情など、たくさんの場面が象徴的な映像となっている。精神科病棟の様子は、たとえば電気ショックの場面はまさにそのままで、実際の精神病院で撮影し、その入院患者たちが協力してくれたことで、まさにリアルな映画になっているのだと思う。今、鬱病になってからボクが観直したこの映画は当初とはるかに違う印象を持った。ボクは精神病院に入院したことはないが、病棟の様子、鍵のかかった病棟、鉄格子の窓、身体拘束をされている人、薬の管理、持ち物管理、タバコの配給、懲罰としての電気ショック、中庭での運動、外部でのレクリエーション、ロボトミー手術。こうした病院という場所での生活の様子が余りにもリアルに感じ取れてしまう。そして精神障害者の社会復帰については、婦長は毎日のミーティングが治療であり、同じ日課を繰り返すことが治療だと言い、正しさ・強さ・厳しさの象徴のように感じる。しかしマクマーフィーは、外部の者として、普通の感覚を持ち込み、自由・快楽の象徴に見える。カッコーは巣を作らず、他の鳥の巣に卵を産んでいく鳥。この管理者と患者という対照的な立場と存在として映画は描かれ、どちらのやり方が本当にいいのかを問い続けている。精神障害者の社会復帰は、少しずつ前進すること。しかしここでは、ハッピーエンドにはならない。悲劇的な結末を迎える。カッコーの巣の上での出来事は悲劇だったのだ。

◎作品データ◎
『カッコーの巣の上で』
原題:One Flew over the Cuckoo’s Nest
1975年アメリカ映画/上映時間:2間13分./ユナイティッドアーティスツ配給
監督:ミロシュ・フォアマン/脚本:ローレンス・ホーベン, ボー・ゴールドマン/原作:ケン・キージー/製作:ソウル・ゼインツ, マイケル・ダグラス/音楽:ジャック・ニッチェ/撮影:ハスケル・ウェクスラー, ビル・バトラー
出演:ジャック・ニコルソン, ルイーズ・フレッチャー, マイケル・ベリーマン, ウィリアム・レッドフィールド, ブラッド・ドゥーリフ

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆

 

 イギリスのとある街にある工場で働くハンナは、あらゆる感情を封印したかのように誰にも打ち解けず、黙々と働き、孤独な毎日を送っていた。彼女の過去は誰も知らない。時々どこかに電話をかける彼女は、相手が出ても何も話さず切ってしまう。全く休まないハンナを見た上司は、働き過ぎを理由に工場長から強引に1か月の休暇を言い渡される。そしてハンナはある港町にやって来る。しかし休暇など欲しくなかった彼女は特別することも思いつかない。そんな折り偶然入った中華料理屋で、看護婦を急募していることを携帯で話す男を見かけ、ハンナは自分は看護婦だと告げる。油田掘削所で火事が起こり、重傷を負った男性ジョセフを看護する人が必要だという。ハンナはすぐにヘリコプターで採掘所に向かう。患者のジョゼフは重度の火傷を負っており、更に火事のせいで一時的に目が見えなくなっていた。ジョゼフは彼を殺そうとした男を助けて重傷を負ったとハンナは聞かされる。ハンナは黙々とジョゼフを看護する。ジョゼフは時には強引に、時には冗談を交えて何とかハンナと交流を持とうとした。ジョゼフや、採掘所で働く心優しいコックのサイモンに、徐々にハンナは心を開き笑顔を取り戻してゆく。
 『死ぬまでにしたい10のこと』のイサベル・コイシェ監督が、再びサラ・ポーリーを主演に描く愛と命と再生の物語。心に深い傷を負い、誰にも言えない秘密を抱えて生きる孤独な女性の再生のドラマだ。質素な食事、潔癖症のように執拗に手を洗い、電話でも一言も発しない。ただ黙々と生きていたサラ・ポーリー演じるハンナの孤独な暮らしを追い、やがて海上の油田掘削所に舞台は変わる。外界から隔絶された場所と孤独志向の男たちに居心地の良さを感じ、視力を失って寝たきりのティム・ロビンス演じるジョゼフの言葉に耳を傾けながら彼女は少しずつ心を開き、遂には自らの過去を告白する。女性が少しずつ生きる喜びを思い出していくまでを丁寧につづる。サラ・ポーリーの表情のない演技とそこから笑顔を取り戻していくまでの変化の演技、ほとんどをベッドに寝たきり状態のキャラクターを演じたティム・ロビンスによる迫真の演技は秀逸。生きていることを恥じるほどの痛みに苦しんでも尚、生き続けるハンナの姿に、人はどう過去を背負い、未来に希望を見出して行くのかが見事に描かれている。過酷な現実の中に見える一筋の光に心を動かされる。2005年ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門オープニング作品、2005年ゴヤ賞最優秀作品・監督賞・脚本賞受賞作品。
 冒頭は明らかに心に傷を負っている彼女が心を閉じた理由に興味が湧く。海に浮かぶ油田採掘所でそれぞれの孤独を背負う男たちの姿を描き出し、ハンナとの共通点を伏線に敷く。しかし、ハンナに心を開いてゆく、妻との不倫を知った親友に目の前で死なれた重症患者ジョセフやマッチョな採掘人からバカにされる海洋学者らを前にしてもまだ何も語らない。冷たい女性を印象付ける。ハンナの孤独はジョゼフの看護で、彼の残したニョッキをむしゃぶるようにほおばるシーンでもわかる。こんな美味しいもの食べたことないと言わんばかりのハンナの気持ちが伝わってくる。淡々とし過ぎてここまでが長すぎる感もある。しかし、ボスニア内戦中の民族淘汰によって心身ともに消えない傷を負った女性のトラウマは簡単に解けるものではないことを表現しているのだ。いつ掘削作業が再開されるかわからない閉ざされた環境の中、さまざまな国の人々のそれぞれの孤独の中で、人の痛みを互いに理解している優しい雰囲気に包まれる。ついに心を通わせたハンナがジョセフに秘密を伝えるところは涙なしには観られない。それでもまだ彼女はジョセフの目が見えないのをいいことに名前や髪の毛の色を隠し続ける。彼女が拘束されたクロアチアのホテルには体に傷を負わされた友達も実際にいたのかもしれないし、子連れも母親もいたのかもしれないが、3人称で彼女たちの悲劇を語り泣き崩れるハンナは自分のことを語っているのだ。それを察したかのようなジョセフ。晴れて病院に転送されるとき、ジョセフは彼女のことを「ハンナ!」と叫んだ。ハンナはクロアチアで傷つけられた友だちの名前のはずだ。これは過去の出来事と葬り去ってはいけないと我々に突き付ける映画だ。語り継ぐ者が必要なのに、被害者は生き残ったことさえ恥だと感じている。日本においても同じだ。汚点とする戦争や事件を消し去ろうとする傾向もあるけれど、我々戦争を知らない人間に説得力を与えるのは容易なことではない。これを涙しながら見て、二度と不幸を繰り返してはいけないのだと、心に刻まなければいけない映画だろう。冗漫でも最後まで見続けなければいけない映画だ。観てよかった。

◎作品データ◎
『あなたになら言えること』
原題:La Vida Secreta de Las Palabras(英語タイトル:The Secret Life of Words)2005年スペイン映画/上映時間:1間55分./松竹配給
監督・脚本:イザベル・コイシェ/製作総指揮:ハウメ・ロウレス, アグスティン・アルモドバル/製作:エステル・ガルシア/撮影:ジャン・クロード・ラリュー
出演:サラ・ポーリー, ティム・ロビンス, ハビエル・カマラ, スティーヴン・マッキントッシュ, エディ・マーサン

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆

  

  舞台はカナダのバンクーバー。夜に大学で清掃の仕事をしている23歳のアンは、夫のドンと、2人の娘とトレーラーハウスで暮らす主婦。17歳のファースト・キスの相手ドンと子供が出来て結婚、19歳で次女を出産した。夫は失業中。ある日ドンが2人の娘を学校に送って行ったあと、腹痛のために病院に運ばれ、検査を受けたアン。結果、癌であることが分かり、23歳にして余命2ヶ月の宣告を受けてしまう。その事実を誰にも告げないことを決めたアンは、夜明けのコーヒーショップで「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書き出し、ひとつずつ実行してゆく。そんな折り、コインランドリーで、コーヒーショップにいた男リーが声をかけてくる。帰宅して洗濯物を取り出すと中には1冊の本が入っており、電話番号を書いた紙が挟まれていた。恋人と別れたばかりというリーの家を訪ねたアンは、彼と恋におちる。優しい夫のドンには、隣の家に越してきた自分と同じ名前のアンが、新しいパートナーになってくれるよう密かに願う。次は10年間刑務所にいる父と面会。したいことをひと通り実行したアンは、母やドンやリー、そして子供たちが17歳になるまでの毎年分の誕生日用にメッセージをテープに録音して、この世を去ろうとしていた。
 ナンシー・キンケイドの短編を原作とするストーリーをスペイン出身のイザベル・コイシェが監督、脚本も担当した。製作総指揮は『オール・アバウト・マイ・マザー』『トーク・トゥ・ハー』などの監督として知られるスペインの名匠ペドロ・アルモドバルが加わり、かれのテイストが色濃く感じられる。アンを演じるのは『スイート・ヒア・アフター』『めぐりあう大地』などのサラ・ポーリー。撮影は「死者とのちょっとした取引」のジャン・クロード・ラリュー。出演は『めぐり逢う大地』のサラ・ポーリー、夫ドンには『デュエット』のスコット・スピードマン、コインランドリーで出会う恋の相手リーには『ウィンド・トーカーズ』のマーク・ラファロ、他にアマンダ・プラマー、レオノール・ワトリング、デボラ・ハリーらが脇を固める。
 随所に語られるナレーションでは、主人公を指す代名詞に“you”が使われている。観客が、この映画の主人公であり、余命が2ヶ月なのだ、と訴えかけるような効果が施されている。サラ・ポーリーの何気ない仕種とどこか冷めた視線が不思議な存在感を醸しだし、確かな、しかし自然な演技力で誰ひとり突出しないバランスを保って淡々と映画は終わってゆく。そして優しい視線を送る医師の存在も小さいながら印象深い。アンは録音したテープを医師に託す。悲観的でない優しさを表現するかのように使われるアイテム、ジンジャーの飴玉は実に効果的だと思う。
 死を悟った人間を主人公にした作品は、繰り返し描かれてきた。『フィラデルフィア』のように闘う人もいるが、この主人公は、まるで今夜の献立を考えるかのように、死ぬまでにしておきたい10個の項目を書き出す。『最高の人生の見つけ方』の余生の過ごし方も素晴らしかったけれど、無理やり楽観視させるような作りでもない。誰にも告げず、死の準備をするアン。「娘たちに毎日愛してると言う」「夫じゃない男と恋をする」「父に面会する」など。家族への愛情から不倫の願望まで、優しさと切なさとを含んだ女心が見える。だんだんと死に向かって受け入れていく表現力が素晴らしい。原題は「私のいない私の人生」、まるで風景のようだ。静かすぎる死へのレールを外れずに歩んでゆくアン。もしかして、他のどの映画よりも彼女は強かったのかもしれないと思う。
 余命を宣告され、泣きわめくこともなく、投げ出すこともなく、家族を思い、平然を装うとする。実に淡々と。悲しみや寂しさを全て乗り越えたわけではないのに、母親として、またひとりの女性として残りを生きることの充実感を見出していく。死ぬ気になると行動力が出る、そんな単純なことではない心の機微が美しい。

◎作品データ◎
『死ぬまでにしたい10のこと』
原題:My Life without Me
2003年カナダ・スペイン合作映画/上映時間:1間46分./松竹配給
監督・脚本:イザベル・コイシェ/原作:ナンシー・キンケイド/製作総指揮:ペドロ・アルモドバル, アグスティン・アルモドバル/製作:エステル・ガルシア, ゴードン・マクレナン, オグデン・ギャバンスキー/音楽:アルフォンソ・ヴィラロンガ/撮影:ジャン・クロード・ラリュー
出演:サラ・ポーリー, スコット・スピードマン, マーク・ラファロ, レオノーラ・ワトリング, デボラ・ハリー

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆