Archive for 2009/09/27


 アイオワ州の田舎町エンドーラ。生まれてから24年、この退屈な町を出たことがないギルバートは、重度の知的障害を持つ自閉症の弟アーニー、夫の自殺から7年間家から出たことがない過食症で250kgの母親、2人の姉妹の面倒を、大型スーパーの進出で売れなくなった食料品店で働きながら見ていた。毎日を生きるだけで精一杯、しかし日々の生活は退屈なものだった。彼は気晴らしに店のお客で、中年の夫人ベティ・カーヴァーと不倫を重ねていた。ある日トレーラー・ハウスで祖母と旅を続ける少女ベッキーが現れる。途中でトレーラーが故障し、ギルバートの町にしばらくとどまることになる。ベッキーの出現によりギルバートの疲弊した心にも少しずつ変化が起こっていった。そんな時、ベティの夫が死亡し、ベティは子供たちと町を出た。ギルバートは家族を捨てて彼女と町を出ていくことはできなかった。アーニーの18歳の誕生パーティの前日、ギルバートはアーニーを風呂へ入れさせようとして、いらだちから暴力を振るってしまう。いたたまれなくなって家を飛びだした彼は、ベッキーの元へと向かった。その夜、彼は美しい水辺でベッキーに優しく抱きしめられて眠った。その翌日、車の故障が直ったベッキーは出発した。華やかなパーティも終わり、最愛のアーニーが18歳を迎えた安堵からか、ボニーは2階のベッドで眠るように息を引き取る。母の巨体と葬儀のことを思ったギルバートは母親を笑い者にはさせないために、家に火を放つのだった。一年後、ギルバートはアーニーと、町を訪れたベッキーのトレーラーに乗り込む。姉や妹も自分の人生を歩きだした。アーニーが自分たちはどこへ行くのかと尋ねると、ギルバートは「どこへでも」と答えた。
 肉体的、精神的に傷つきやすい家族を守って生きる青年の姿を通して、家族の絆、兄弟の愛憎、青春の痛み、そして未来への希望を描いた心優しきヒューマン・ドラマ。劇作家だったピーター・ヘッジス初の小説を本人自身が脚色し、『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』のラッセ・ハルストレムが監督をした。出演はギルバートにジョニー・デップ、ベッキーにのジュリエット・ルイス、アーニーにレオナルド・ディカプリオが扮している。レオナルド・ディカプリオはこの作品でアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされた。原題の“What’s Eating Gilbert Grape”は、「ギルバート・グレイプを困らせるもの」というような意味。原題の方が内容をよく顕しているわけだ。
 何といっても19歳だったディカプリオの自閉症の演技に圧倒される。ほのぼのとした話の中で強い存在感を見せつける。ディカプリオと母親の絶大な存在感の中で、ロマンティックでさわやかなギルバートとベッキーのピュアな恋愛が活かされてゆく。このあと、人気を不動のものにしてゆくディカプリオは演技派でありながらアカデミー会員に嫌われるような妙な自尊心と作品選びをしてゆくことになるが、このときは名子役と言える、他の人にはできない演技だったろう。『タイタニック』から彼は何かが変わってしまったように感じる。彼自身の演技ではないのかもしれないけれど。実際に自閉症の演技と言うと『レインマン』のダスティン・ホフマンや『アイ・アム・サム』のショーン・ペンの名演が思い浮かぶが、この年齢でこのふたりに引けを取らない演技だと思う。そして、いるだけの存在感で他を圧倒しているのが母親役のダーレーン・ケイツ。彼女は原作・脚本のピーター・ヘッジズが見つけて来た逸材だ。その圧倒的なふたりの存在感の中で、ごく普通のしかしいろいろな感情を抱えた好青年とその相手役は霞みがちになりそうなところを、本当はジョニー・デップとジュリエット・ルイスがピュアな作品にまとめているのだとい思う。過剰演技に隠れた確かな演技に評価をしたい。
 過食症の母、自閉症の弟、それを健気に支える青年、という設定からして、大体のストーリーは予測がつく。そこに、旅の途中に車の故障で少女が登場すれば、ストーリー展開のスリリングさはない。そこに求められるのは、それぞれの愛にどういう形で踏み込み、将来を形作っていくか、だ。夫の自殺後、外界から一切を切り離し、自分の殻に閉じこもって過食症になる母、笑われることを知りながら息子のために十何年振りかに家を出てみる母、そして、静かに死んでゆく母、その生き方を見ながらギルバートは自分の道を決めたのだと思う。父親が死んでから17年、アーニーも17歳、この変貌から得たもの、見つけた未来、それが、この映画のすべてだと思う。

◎作品データ◎
『ギルバート・グレイプ』
原題:What’s Eating Gilbert Grape
1993年アメリカ映画/上映時間:1間58分./シネセゾン配給
監督:ラッセ・ハルストレム/原作・脚本:ピーター・ヘッジズ/製作総指揮:アラン・C・ブロンクィスト/製作:メイア・テペル, バーティル・オールソン, デイヴィッド・マタロン/音楽:アラン・パーカー, ビョルン・イスファルト/撮影:スヴェン・ニクヴィスト
出演:ジョニー・デップ, ジュリエット・ルイス, メアリー・スティンバーゲン, レオナルド・ディカプリオ, ダーレーン・ケイツ

recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

  

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 1963年9月のある日、詐病によって刑務所から逃れるためにオレゴン州立精神病院に入院してきたランドル・P・マクマーフィ。向精神薬を飲んだふりをしてごまかし気狂いを装っていた。マクマーフィは初めてディスカッション療法に参加したが、婦長の定めた病棟のルールに片っ端から反抗していく。グループセラピーなどやめてテレビでワールドシリーズを観たいと主張し、他の患者たちに多数決を取ったりなどする。また他の患者を無断で船に乗せて、海に出たりもする。こうした反抗的な行動が管理主義的な婦長の逆鱗に触れ、彼女はマクマーフィーが病院から出ることが出来ないようにしてしまう。マクマーフィーはチーフが実際はしゃべれないフリをしていることに気づく。クリスマスの夜、マクマーフィーは病棟に女友達を連れ込み、酒を持ち込んでどんちゃん騒ぎをやる。その後、逃げ出すつもりだったのだが寝過ごしてしまう。翌日、乱痴気騒ぎが発覚し、そのことで婦長から激しく糾弾される。そのショックでマクマーフィーにかわいがられていた若い男性患者が自殺してしまう。マクマーフィーは激昂し、彼女を絞殺しようとする。その後、婦長を絞殺しようとしたマクマーフィーは他の入院患者と隔離される。マクマーフィーは病院が行ったロボトミーの治療によって、もはや言葉もしゃべれず、正常な思考もできない廃人のような姿になって戻ってくる。数日後、1人ひそかにその帰りを待つチーフのもとへ、植物人間と化したマクマーフィが戻ってきた。マクマーフィをこのままここに置くにしのびないと感じたチーフは、枕を押しつけ彼を窒息死させた。チーフにとってそれが最後のマクマーフィに対する友情の証しだった。明け方、窓をぶち破り、祖先の愛した大地を求めて走り去るチーフの姿が、逆光の朝日の中にあった。
 原作はケン・キージー。邦題が当初「郭公の巣」であったが、後に映画のタイトルに合わせて改題され、邦訳が「カッコーの巣の上で」というタイトルで富山房から出版された。なお、原作での主人公はチーフであり、彼の視点から物語は描かれている。製作はソウル・ゼインツとマイケル・ダグラス、監督はのミロシュ・フォアマン、脚本はローレンス・ホウベンとボー・ゴールドマンの共同。出演はジャック・ニコルソン、ルイーズ・フレッチャー、ウィリアム・レッドフィリルズなど。なおゴールデン・グローブ賞6部門、アカデミー賞5部門を受賞した。
 精神異常を装って刑務所での強制労働を逃れた男が、患者を完全統制しようとする精神病院の看護婦長から自由を勝ち取ろうと試みる、そんな映画化に至るまでに監督は、非常に苦難の道のりを辿ったと話している。主人公マクマーフィは絶対権力を誇る婦長ラチェッドと対立しながら、入院患者たちの中に生きる気力を与えていく。当初の邦題、映画化で決まった邦題、いずれもすぐに意味を理解することは難しいが、原題は最後にチーフという名の患者が独りで自由を求めて、精神病を患う人の集まる精神病院から脱出することが主題だと思う。もともとの由来はマザー・グースの詩。またカッコーの巣“Cuckoo’s Nest”は、“精神病院”の蔑称のひとつである。“Cuckoo”自体“まぬけな”とか“気の狂った”という意味がある。ジャック・ニコルソンは、ボクが知る限り若いころの演技ではこの作品がいちばん優れているように思う。彼は患者の人間性を取り戻すべく、病院側に挑戦する。この映画は自由と抑圧の問題性の問いかけと捉えるのが簡単だ。しかし、もっと深いものがあるように思う。車が水平線から現れ病院についた箇所、婦長が病棟に入ってくるのに鍵を開け鉄の扉を開け鉄格子の見える病棟に入ったくだり、順番に薬を飲むときのシーン、電気ショックのシーン、バスに乗って街中を走っているときのみんなの表情、釣船に乗り出掛けて行くとき、帰ってきたときの表情など、たくさんの場面が象徴的な映像となっている。精神科病棟の様子は、たとえば電気ショックの場面はまさにそのままで、実際の精神病院で撮影し、その入院患者たちが協力してくれたことで、まさにリアルな映画になっているのだと思う。今、鬱病になってからボクが観直したこの映画は当初とはるかに違う印象を持った。ボクは精神病院に入院したことはないが、病棟の様子、鍵のかかった病棟、鉄格子の窓、身体拘束をされている人、薬の管理、持ち物管理、タバコの配給、懲罰としての電気ショック、中庭での運動、外部でのレクリエーション、ロボトミー手術。こうした病院という場所での生活の様子が余りにもリアルに感じ取れてしまう。そして精神障害者の社会復帰については、婦長は毎日のミーティングが治療であり、同じ日課を繰り返すことが治療だと言い、正しさ・強さ・厳しさの象徴のように感じる。しかしマクマーフィーは、外部の者として、普通の感覚を持ち込み、自由・快楽の象徴に見える。カッコーは巣を作らず、他の鳥の巣に卵を産んでいく鳥。この管理者と患者という対照的な立場と存在として映画は描かれ、どちらのやり方が本当にいいのかを問い続けている。精神障害者の社会復帰は、少しずつ前進すること。しかしここでは、ハッピーエンドにはならない。悲劇的な結末を迎える。カッコーの巣の上での出来事は悲劇だったのだ。

◎作品データ◎
『カッコーの巣の上で』
原題:One Flew over the Cuckoo’s Nest
1975年アメリカ映画/上映時間:2間13分./ユナイティッドアーティスツ配給
監督:ミロシュ・フォアマン/脚本:ローレンス・ホーベン, ボー・ゴールドマン/原作:ケン・キージー/製作:ソウル・ゼインツ, マイケル・ダグラス/音楽:ジャック・ニッチェ/撮影:ハスケル・ウェクスラー, ビル・バトラー
出演:ジャック・ニコルソン, ルイーズ・フレッチャー, マイケル・ベリーマン, ウィリアム・レッドフィールド, ブラッド・ドゥーリフ

recommend★★★★★★★☆☆☆
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