Category: Drama


こんばんは。

今日は、11月9日から名演小劇場で公開される映画『ラフィキ:ふたりの夢』をご紹介します。

 

【INTRODUCTION】

ケニアのカラフルな最新カルチャーにのせて、自由な恋愛と幸せな未来を夢見るふたりを描く感動作!

2018年、カンヌ国際映画祭史上初のケニアからの出品(ある視点部門)という快挙を成し遂げると共に、トロント、シカゴ、ロンドン、ロッテルダムなど100以上もの映画祭に出品され、世界から熱く支持されたにもかかわらず、本国ケニアでは観ることのできない作品がある。ふたりの女性が恋に落ちる物語であることから、いまだ同性愛が違法とされ、禁固刑に処されることもあるケニアで上映禁止となったのだ。のちに、米アカデミー賞外国語映画賞へのエントリーの条件を満たすために、ナイロビのある映画館で2018年9月23日から9月30日の1週間だけ上映が決定。「長蛇の列」「チケットを求める電話が殺到」というニュースがSNSを飛び交った話題作が、ついに日本にもやってくる。

看護師になるのが目標のケナは、古いしきたりにとらわれた周囲の人たちに満たされない想いを抱えていた。両親は離婚し、ナイロビで母と暮らしていたが、国会議員に立候補した父のことは応援している。そんな時、父の対立候補の娘で自由奔放なジキと出会う。互いに強く惹かれたふたりは、「私たちは本物になろう」と誓い合う。だが、友情が愛情へと変わり始めた時、ふたりはこの恋は命がけだと知る。

カンヌをはじめ100以上もの映画祭に出品され、世界から暑く支持されている話題作。だが、いまだ同性愛が違法とされるケニアでは上映禁止となり、のちに1週間だけ限定公開された時は、「長蛇の列」というニュースがSNSを飛び交った。

監督は、デビュー作でアフリカのアカデミー賞を獲得、今最も輝く才能と絶賛されるワヌリ・カヒウ。ミュージシャンのサマンサ・ムガシア、監督にも進出したシェイラ・ムニヴァと、多彩な女優たちが競演。

音楽、ダンス、ファッション、アート-ポップでカラフルなアフリカンカルチャーにのせて、人生を豊かにする人と人の絆を描く感動作。

(引用:公式ホームページ http://senlis.co.jp/rafiki/

【DATA】

『ラフィキ:ふたりの夢』

 2018年製作/ケニア・南アフリカ・フランス・レバノン・ノルウェー・オランダ・ドイツ合作/82分/原題:Rafiki

出演:サマンサ・ムガシア/シェイラ・ムニヴァ/ジミ・ガツ/ニニ・ワシェラ/デニス・ムショカ/パトリシア・アミラ/ネヴィル・ミサティ

監督:ワヌリ・カヒウ/製作総指揮:ティム・ヘディントン/製作:スティーブン・マコヴィッツ/原案:モニカ・アラク・デ・イェコ/脚本:ワヌリ・カヒウ, シエナ・ベス/撮影:クリストファー・ウェセルス/製作:Big World Cinema、Afrobubblegum/配給:サンリス© Big World Cinema.

【IMPRESSIONS】

この映画を鑑賞した直後は、主人公たちが純粋無垢な自分たちの想いを貫き、当人たちではどうしようもない環境を乗り越えていくお手本のような恋愛映画という印象を受けた。なるべく先入観なしに観たかったので、ケニアの社会的背景や映画事情はわかっていない状況で観に行った。主人公たちの胸をえぐられるような苦しみや絶望感は、こみあげるような共感と感動をクレジットどおり呼び起こさせるものだった。

ケニアのLGBTに対する現状は、思っていたよりも壮絶で、同性愛行為自体が犯罪、映画はカンヌに選出されたが、ケニアでは上映禁止となった。ケニア映画検閲委員会(KFCB)は、同性愛のテーマとケニアでレズビアン主義を促進するという明白な目的のために映画を禁止し、違法であるとしてケニアの人々の文化と道徳的価値を傷つけると結論づけて上映を禁止した。2014年にもナイロビの芸術集団によって作られた東アフリカのLGBTQコミュニティについてのオムニバス映画が、同性愛映画として上映中止になっている。ナイロビでの1週間だけの上映が、米アカデミー賞外国語映画賞へのエントリーの条件を満たすためとなっているが、SNSネット上で上映中止に反対する声が挙がって大論争を巻き起こしたという経緯も影響しているようだ。実際に、映画館で長蛇の列ができ、チケットを求める電話が殺到したということで、ひとつの映画が、ケニア社会を変えていったとも言える。

ケニアでは現実にはありえなさそうだが、唯一父親が傷ついた主人公ケナを抱きしめるシーンには救われた。看護師になる夢を果たしたケナが知り合いの入院患者から激しい罵倒を浴びせられてもさらりとかわす場面では成長を感じさせるし、ラストシーン、ジキの傷が多少なりとも癒され未来を想像させるあたりも観終わったあとの後味は悪くなかった。
ただ、この映画の上映時間は82分と短い。細かいディテールの部分でいえば、ストーリーの深さの割に、どのように傷ついたか、どのように愛し合っていたかの表現が浅く、エピソードのつなぎも丁寧さが足りないように感じた。ストーリーの内容が濃いので、細かい部分に丁寧さを盛り込んで100分近い作品にしても長くは感じないと思った。冒頭、ケナがジキに惹かれていくまでが丁寧だっただけに、サッカーのシーンから雨が降り秘密の場所へと誘うあたりは陳腐な印象も残るし、ゲイ男性の若者の描き方にも雑な印象を受けた。

細かい点は抜きにしても、この映画は社会的問題提起の映画として、クレジットもされているし、レビューもその視点で書かれているものが多い。だとすれば、ケニアの実情を知っておく必要はあるように思う。

「ラフィキ」とはスワヒリ語で「友達」という意味らしい。これは、友達のような恋がしたいという意味ではなく、パートナーや恋人を紹介するときにケニアの人々は「友達」と表現して関係性をぼかすことがよくあるということに由来していると監督は言っている。それだけ、周囲に認められることが難しいことをタイトルに込めたというわけだ。ケニアに生まれていたら自分はどうなっていたんだろうと思うといたたまれなくなるが、「普通に恋がしたい」「本当の自分でいたい」「周囲に認められたい」ことに高さの差異はあれ、ハードルが高いことは日本でも同じ。LGBT目線でいえば、ケナやジキの孤独感をいろんな方に映画を観て知っていただきたいと思う。

予告編:https://www.youtube.com/watch?v=I5ITjFkBmBc

名演小劇場HP:http://meien.movie.coocan.jp/

こんにちは。

今日は、10月12日から名演小劇場で公開される映画『バオバオ フツウの家族』をご紹介します。

 

f:id:nagoyalgbt:20191007152713j:plain【INTRODUCTION】

 

赤ちゃんは誰の子? 誰が育てる? さまざまな問題を抱えながらも愛を信じ、新しい家族のカタチに向かって宇宙飛行士のような勇気で挑もうとする、ミレニアル世代の清新なLGBTQ映画

ロンドンの会社で働くジョアン(クー・ファンルー)と取引先の友人チャールズ(蔭山征彦)には、それぞれ画家シンディ(エミー・レイズ)と植物学者ティム(ツァイ・リーユン)という同性の恋人がいる。

4人はそれぞれの想いからシンディの子宮を借りた妊活に同意し、チャールズとティムの精液を採取してシンディの子宮に注入するのだが一向に妊娠しない。思い余った4人は病院での体外受精を決断する。ジョアンとシンディの卵子にチャールズとティムの精子を注入してできる二つの受精卵をシンディの子宮に戻して、男女の赤ちゃんを産み、男の子はジョアンたち、女の子はチャールズたちが引き取るというものだ。

順調そうに見えた矢先シンディは出血する。子供を奪われる悪夢にうなされるシンディのことが気がかりでジョアンは仕事で失敗をしてしまう。ロンドンであと1年がんばれば英国籍も取得できるというジョアンにとっては大きな痛手だ。そんなところへチャールズが小切手をもって訪ねてくる。病院から戻ったシンディは偶然それを見つけ、逃げるように台湾に戻り、幼なじみで好意を寄せてくれている警官タイ(ヤン・ズーイ)を頼る。一方、チャールズはティムに、赤ちゃんが自分たちの子供になることを伝える、手を打ってきたと…。

(引用:公式ホームページ http://baobao.onlyhearts.co.jp/

 

 

【DATA】

 

『バオバオ フツウの家族』

2018年製作/台湾/97分/原題:愛的卵男日記/英題:Baobao

出演:エミー・レイズ/クー・ファンルー/蔭山従彦/ツァイ・リーユン/ヤン・ズーイ

監督:シエ・グアンチェン/製作:リン・ウェンイー/脚本:デン・イーハン/製作:Helsinki-Filmi/配給:オンリー・ハーツ、GOLD FINGER/後援:台北駐日経済文化代表処台湾文化センター

 

【IMPRESSIONS】

2018年秋に台湾で公開された本作は、それに先立ち同年8月から9月に開催された「第五回台湾国際クイアフィルムフェスティバル」のオープニング作品として上映され、海外では、スペインとロスアンゼルスの映画祭で上映されているよう。

この物語は、台湾で新人登竜門としていちばん大きな脚本賞のコンペから生まれた。2015年、これに応募した国立台湾大学大学院に在学中のデン・イーハンの脚本『我親愛的遺腹子』が優秀賞を獲得し、それがプロデューサーのリン・ウェンイー林文義の目にとまり、映画化が進んだとのこと。リン・ウェンイーは同性愛に詳しいシエ・グアンチェンを監督に起用し製作を開始したという経緯があるらしい。

この映画を単なる愛に関する現実との問題ととらえるか、問題提起の映画として捉えるかによって、この映画の評価もレビューも変わってくる。これを書くにあたって、同性愛者の当事者や非当事者の感想や著名人のコメントに目を通したが、当事者・非当事者関係なく賛否両論、特に価値観や差別感もさまざまで愕然とした。そしてまだまだわれわれ当事者には生きにくい社会であることを痛感した。ネタばれになるので詳しいところまで書けないのが歯がゆいが、法的に家族と認められないと分娩室に入れないなど制度的に同性愛当事者では認められないシーンでは、不条理なルールに腹立たしささも感じたし、登場人物の心の痛みに共感しすぎてしまい泣けてしまって冷静に観ることができない部分もあった。愛のあり方、家族としての価値観を観る側として考えるには素晴らしい作品であるし、映像の美しさ音楽の使い方も秀逸、とりわけ主人公4人の細かい心理描写を絶妙に表現する演技には脱帽。

しかし、この映画を社会的な問題提起として捉えるとしたら、評価は変わってくる。今年5月に同性婚が合法化されアジア全体から見てもLGBTに関して寛容度の違う台湾を現在の日本に置き換えることはできないし、ストーリーの設定自体を、荒唐無稽・絵空事・夢物語と捉えられてしまっておかしくない。

ただ、今後を含め、LGBTに関する社会のありようやこれからの取り組み、当事者・非当事者を問わず個々人の高い意識の持ち方や覚悟や価値観を真正面から受け止めていく契機としては充分に意味が見出せる映画ではあった。

LGBTに生まれるということは、多くの場合、親を動揺させ、将来に不安を伴い、理解をされにくい立場にあるから、本当の自分の気持ちを認めてほしい、知ってほしいという欲求が非当事者に較べ多いと感じている。相当リベラルな価値観を持つ親の元に生まれなければ、のびのびと幼少時代を送ることができない。その中で自分自身を受け入れきれずに大人になってしまった当事者にとっては、生きづらさを感じずにはいられないし、パートナーや周りの人たちへの承認欲求は自動的に強くなってしまう。存在が可視化されていないことはそこに由来すると思っている。できれば、それを踏まえたうえでこの作品を鑑賞していただきたいと感じた。

予告編:https://youtu.be/OaZOHoayVm4

名演小劇場HP:http://meien.movie.coocan.jp/

 

baobao.onlyhearts.co.jp

youtu.be

今日は、9月14日から名古屋シネマテークで公開される映画『トム・オブ・フィンランド』をご紹介します。

>『トム・オブ・フィンランド』

【INTRODUCTION】

国の「恥」とまで言われた男は、世界中の人々の「自由」と「誇り」のシンボルになった

鉛筆一本でゲイカルチャーに革命を起こした、20世紀最も偉大なエロティック・アーティストの数奇な半生

同性愛が厳しく罰せられた第二次世界大戦後のフィンランド。帰還兵のトウコ・ラークソネンは、昼間は広告会社で働き、夜は鍵のかかった自室で己の欲望をドローイングとして表現していた。スケッチブックの中で奔放に性を謳歌しているのは、レザーの上下に身を包み、ワイルドな髭をたくわえた筋骨隆々の男たち―。トウコが仲間とこっそり楽しむために描き続けたそれらの絵は、「トム・オブ・フィンランド」の作家名でアメリカの雑誌の表紙を飾ったことをきっかけに、ゲイ男性たちの希望のイメージとして世界中に広がっていく。

今やゲイカルチャーのアイコンとなっている、あの美しく逞しい男性像はどのように生まれたのか? 性的マイノリティに対する差別が激しかった時代、愛する人と外で手をつなぐことすらできない理不尽に苦しみ、肉親の無理解に傷つき、それでも描き続けた彼の原動力は何だったのか? そして、フレディ・マーキュリー、ファッションデザイナーのトム・フォード、写真家のロバート・メイプルソープをはじめ、無数の人々に勇気とインスピレーションを与えた彼のえの魅力とは―。

伝説のアーティストの知られざる生涯が今、スクリーンに蘇る。

(引用:公式ホームページ http://www.magichour.co.jp/tomoffinland/

 

 

【DATA】

『トム・オブ・フィンランド』

2017年制作/フィンランド・スウェーデン・デンマーク・ドイツ合作/116分/原題:Tom of Finland

出演:ペッカ・ストラング/ジェシカ・グラボウスキー/ラウリ・ティルカネン/ヤーコブ・オフテブロ/タイスト・オクサネン/シェーマス・サージェント/ニクラス・ホグナー

監督:ドメ・カルコスキ/製作:アレクシ・バルディ, ミーヤ・ハーベスト, アンニカ・サックスドーフ/原案:アレクシ・バルディ, ドメ・カルコスキ/脚本:アレクシ・バルディ/撮影:ラッセ・フランク/音楽:ヒルドゥール・グドナドッティル, ラッセ・エネルセン/製作:Helsinki-Filmi/配給:マジックアワー/後援:フィンランド大使館

 

【IMPRESSIONS】

思春期時代、それはまだ情報量も少なく、数少ないゲイ雑誌のグラビアをこっそり見る程度だったのを振り返ると、主人公の描く鉛筆一本の描写はエロティシズムを絶頂にさせたものだった。今作品を見ても鉛筆一本で描く表情やたたずまいは美しいと思えるが、情報量が圧倒的に違う今ではエロティシズムは感じられなくなってしまった。彼が表現したのは筋骨隆々でたくましい男性像。ゲイを美しいものと表現するのとは対極の表現。その分露骨な性描写が少ないのは、作品として受け入れやすいうえ、ゲイに生理的な抵抗を感じるヘテロセクシュアルにも見やすい映画になっていると感じる。

詳しい内容はネタバレを含んでしまうので、これから見る方たちのために詳しい感想は控えるが、この映画は「ゲイカルチャー」を描いた映画。時代背景は状況の説明に過ぎない。

しかし、現在ではあらゆる差別に寛容で、福祉制度も充実しているフィンランドにもこんな時代があったこと、特にゲイは悪とされた時代があったことは、知っておくべき。

主人公のトウコは自分がゲイ当事者であることに関して何の違和感も持っていない。むしろ誇りさえ感じる。戦争時のゲイバッシング、家族の無理解、エイズの社会に対する影響と差別、そしてエイズで大切な人たちを失っていくとてつもない悲しみ…。その中でも彼は自分がゲイであることを肯定し続けた。むしろ誇りさえ持っていた。彼はそんな生きる壁とは闘わずして、むしろ逃げながら、ゲイ当事者の中に勇気と誇りを与え続けた。それによって生きる希望を与えた。今更、この時代の映画が必要かどうかの議論を戦わせるべきではないというのが、この映画の正しい見方だと思う。

個人的に惹かれたのは、恋人ニパのファッション。彼の美しい顔立ちやルックスをさらに魅力的させる、当時としてはおそらくオーソドックスではないファッションセンスは特筆ものだと思う。彼がこだわったカーテンの色を好ましく思わなかった主人公も、彼の残り少ない余生のために部屋に取り入れていくシーンはジーンときた。

そして、もうひとつ、触れておかなければいけないのが妹の存在。主人公のトウコを全面的に支持し、恋敵を奪われても愛情を持って接していた彼女もトウコのゲイの部分は最後まで受け止めきれなかった。ゲイを「下品」とさえ言った。彼女が欲していた絵の才能も兄には生涯追いつかず、最愛の人を奪われ、兄がゲイであることを受け入れられなくても、愛を注ぎ続けていた彼女の苦悩にも人生を感じる。家族に愛されながらも、どこかゲイであることを受け入れてもらえない自分を重ね合わせてしまった。

最後に、言っておきたい。フィンランドと日本では時代的にも現在の状況においても、背景がまったく違う。正直、現在の日本で社会とのバランスを取りながら、生活をしている多くの日本のゲイの当事者の人たちには、今以上にゲイであることを誇りに思ってほしいと個人的には思っている。あくまで個人的に思うことだが、人としてLGBT非当事者と共存していくことより、人としてではなくゲイとして誇りを持っている自分を受け入れてもらいながら非当事者と共存していくことの方が圧倒的に自分の人生を謳歌し、充実した人生を送ることができると信じている。ゲイ当事者にいちばん観てほしい映画だと思った。

 

 

予告編:http://www.magichour.co.jp/tomoffinland/

名古屋シネマテークHP:

★ネタバレ注意★ストーリーあらすじすべて、結末にも触れているので観る予定のある方は注意してください

 舞台はカナダ、ケベック州。モントリオールで国語の教師をしているロランスとフレッドはおしゃれでとてもお似合いのカップル。しかし、ロランスはずっと自分の体に違和感を覚えていた。そして遂に、35歳の誕生日、フレッドに、自分はトランスジェンダー(性同一性障害)だと告白する。ロランスの告白にフレッドは激高するも、いちばんの理解者になることを決める。母親のジュリエンヌ(ナタリー・バイ)は達観の境地だ。しかし、周囲の偏見と冷淡な視線にさらされ、次第にふたりのあいだにも避けがたい葛藤と亀裂が広がり出す。女として生きていきたいと願ったロランスはスカートを身につけ、ストッキングとヒールをはいて学校へ行く。しかし学校の反応は求めていたものとは違った。ロランスは学校から解雇を言い渡される。教えることに情熱をかけるロランスは学校関係者に懇願するが認めてもらえない。偏見の固まりである、ある人物は「文章が書けるのだから、自身のことを小説にしたら?」と言う。落ち込むロランスを支えたのはもちろん恋人のフレッドだった。しかし、フレッドも限界だった。感情を顕にし、精神的にも不安定になる。やがて、ふたりには破局が訪れ、フレッドは結婚し子供を儲ける。ロランスは、文章を書くことに執着し、後に詩を書き成功を収める、若い女性と同棲する。フレッドを失った悲しみはいつも胸の奥底にあった。やがてその詩集はフレッドに贈られ、フレッドはロランスと再会することになる。ところが、喜びもつかの間、やはりふたりの溝は埋められなかった。話し合っても己の気持ちを押し付けるだけで最後はケンカになる。迷いや戸惑い、周囲の反対を乗り越えて、社会の偏見に遭いながら、ふたりはそれぞれの人生を歩むのだった。
 24歳にして長編映画を撮り上げたカナダ人監督グザヴィエ・ドランの3作品目。噂によると監督自身はゲイであるらしい。トランスジェンダーではないがある意味作品は全部自伝的な部分があると言っている。公開にあたり、漫画家のやまだないと氏が描き下ろしイラストとコメントを寄せているほか、各界のクリエイターが今作についてメッセージを寄せている。 本作は、昨年のカンヌ国際映画祭ある視点部門に正式出品され、高い評価を得、フレッドを演じたスザンヌ・クレマンは最優秀女優賞を受賞している。トロント国際映画祭では最優秀カナダ映画賞受賞を受賞した。ドラン監督に惚れ込んだガス・ヴァン・サント監督が全米公開時のプロデューサーを務めているのも話題。、監督・脚本・美術・衣装・編集・音楽をひとりでこなしているところも彼ならではの才気だと思う。主人公のロランスに『ぼくを葬る(おくる)』のメルヴィル・プポー、フレッドにスザンヌ・クレマン、ロランスの母親ジュリエンヌに『勝手に逃げろ/人生』『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のナタリー・バイ、フレッドの妹にモニカ・ショクリ、フレッドの母親にソフィー・フォシェ、ジャーナリストにスーザン・アームグレンが扮している。
 169分という長丁場を、まばたきするのも惜しいほどの映像美で魅せてくれた本作品は、80年代90年代のファッション、カルチャー、音楽をふんだんに取り入れている。ザ・キュアー、デュランデュラン、デペッシュモード、ヴィサージ、ザ・ブルーナイル、などなど、ニューウェイブからオルタナティヴロックまで、グッとくるラインナップが散りばめられている。ロランス目線のショットの多用と、揺れ動き、ときには疾走するカメラワークは時に冗漫なシーンも飽きさせない。暴発寸前のふたりの痛ましいほどの感情の軋みをそのまま体現しているかのように感じさせるカメラワークだった。突然、ベートーベンが鳴り響き、居間のソファーの上に豪雨が降り注ぐかと思えば、空からカラフルな衣服が落ちてくる意表を突くシーンも、スタイリッシュで、奇をてらったものではなく、周到で綿密に計算された華麗なオペラ演出を見ているような感覚が残る。監督の手腕は誠実であり、緻密だった。
 前評判が高く、たくさんの方から奨められて観てみて、まずは音楽・映像・ファッションのスタイリッシュさに一気に引き込まれていった。ただそのスタイリッシュさはこの主人公のようなライフスタイルを表現するのに必要な要素という意味で、ストーリー全体から言えば、スタイリッシュというより官能美かも知れない。結局は壮大なラブストリーだ。しかし、ラブストーリーでありながら、「愛」の定義がややこしい。ストーリーの紹介部分でボクは「自分はトランスジェンダー(性同一性障害)だと告白する」と書いた。しかし、ロランスはひとことも、「トランスジェンダー」とも「性同一性障害」とも言っていない、ただ「自分は女だから女になりたい」と言っていただけだ。女性の服装も着るし化粧もする。でもフレッドが用意したカツラは決して被らない。カツラはロランスにとっての他人のごまかす嘘の表現に過ぎず、自分の中での女らしさの表現ではない。そのうえ、ロランスがパートナーに選ぶのはいつも女性。漫画家のやまだないと氏がこの映画を「おとこにうまれたから、おんなのひとを愛するんだろうか。おんなにうまれたから、おとこのひとを愛するんだろうか」と評した。素朴な疑問だが、セクシュアルマイノリティの当事者以外の人は、このあたりで混乱が始まるのだろう。ボクも同性愛者ではあるがトランスではないのでわかる部分とわかりにくい部分がある。性転換者が転換後の性のひとをパートナーの対象に選ぶというのはざらにある。男性から女性へのトランスジェンダーで女性になってレズビアンになったの、と説明するひともいる。性の多様性が社会に受け入れられていれば問題はない。ただ、ロランスは見てくれの表現は女性にこだわったけれど、恋愛対象においては性という壁カテゴリーを超えてしまったのだと思う。カテゴライズから抜け出てしまった。何度かの再会のうち、最後にロランスとフレッドはお互いにまだ愛し合っていることを確認し合うが、フレッドはロランスに「地上に戻ってきてよ」と言う。ロランスはこう答えた。「地上に? せっかくここまで・・・」と。愛し合っていても時空を共有できないから、一緒にいられないのだ。しかし、フレッドは違った。再会して抱き合うシーンでもフレッドの胸と局部を確認した。最後のふたりのシーンの後、ラスト、シーンは出会いに遡る。フレッドに声をかけてきた男らしい男性が名前を「ロランス・アリア」と名乗る。そこで、フレッドは満面の笑みを浮かべる。フレッドは明らかに男であるロランスを求めていたのだ。フレッドの場合、告白の時点で破局するべきだっと思う。ロランスは最初は男だったからフレッドを好きになったのかもしれないが、自分がどうしても女になりたいのと、フレッドを愛する理由は「男」でなければいけない理由はひとつもない。
 またこの映画に写真家の大橋仁氏が「誰もが各々の出方を伺いながら生き形作られる世の中、黙ってひっそりと他人に迷惑をかけない人生を送る事が調和だと誰もが言い聞かせ合っている。そんなものは調和ではない、鎖だ。牽制し合う鎖つきの調和などいらない、ぶつかり合う調和が欲しい。この映画を見てそう思った」と寄せた。まさにこの映画はぶつかり合いながら調和しようとしていた。このふたりはぶつかり合いながら「愛」を貫き通そうとした。ふたりの見ているそれぞれの「愛」の貌は違うのに「愛」への強烈な想いだけが重なり合っていた。愛する思いが強すぎるために貪欲に見返りを求めてしまう。そんなふたりの不器用な生き方はとても人間的で哀しい。
 この映画を観てかなり胸が苦しくなった。いい映画だと強く感じたが、セクシュアルマイノリティ当事者のボクが観ると、自分をさらけ出すことはこうしてひとつの騒ぎを起こしまわりのひとを巻き込み不幸にする可能性が高く、ひとに何か難儀なものを強制的にさせることになるのだということを痛感してしまうからだ。他者の目を介して困難に直面するなかで、他者への愛と自分自身への愛。どちらも損なわずに生きていくことは果たして可能なのかという問いに直面し、葛藤する。葛藤の描写がこの映画の非凡さだと思う。葛藤は、もの哀しげなのにどこか幸せ、耽美として観る側に印象を与えていく。

◎作品データ◎
『わたしはロランス』
原題:Laurence Anyways
2012年カナダ・フランス合作映画/上映時間:2時間48分/アップリンク配給
監督・脚本:グザヴィエ・ドラン/製作:リズ・ラフォンティーヌ/音楽:ノイア/撮影:イヴ・ベランジェ
出演:メルヴィル・プポー, ナタリー・バイ, スザンヌ・クレマン, モニカ・ショクリ, スージー・アームグレン

recommend★★★★★★★★☆☆
favorite ★★★★★★★★☆☆

 インドの大都市ムンバイの中にある世界最大規模のスラム、ダーラーヴィー地区で生まれ育った少年ジャマール。テレビの人気クイズ番組「コウン・バネーガー・カロールパティ」(クイズ$ミリオネア)に出演し、数々の問題を正解、ついに最後の1問にまで到達した。しかし、無学であるはずの彼がクイズに勝ち進んでいったために、不正の疑いがかけられ、警察に連行されてしまう。そこで彼が生い立ちとその背景を語り始める。
 インド人作家のヴィカス・スワラップの小説「ぼくと1ルピーの神様」を『トレインスポッティング』の斬新で粗雑な印象を受けたダニー・ボイルが映画化。最初に昨年第33回トロント国際映画祭観客賞を受賞してから、第66回ゴールデングローブ賞作品賞を経て、第81回アカデミー賞では作品賞を含む8部門を受賞した。最多部門ノミネートの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の最多ノミネートを圧倒する結果となった。結果、作品賞だけでも14以上、監督賞で20以上、演技賞こそほとんどないが、スタッフ関係は数えだしたらきりがない。
 映画版は原作と比べると、ストーリーが大幅に変わっている。主人公の名前は原作ではラム・ムハンマド・トーマスとなっており、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒の名前が全部入った不思議な名前となっている。彼は孤児でイギリス人神父に育てられており、彼が半生を語る相手は警察ではなく、彼を警察から救出した女弁護士になっている。孤児である設定なので兄はいないため、映画版にある兄サリムが関わるギャングにまつわる部分は全て映画オリジナルである。原作に登場するサリムはラム・ムハンマド・トーマスの親友のイスラム教徒で、宗教的迫害によって家族が殺害されたのはこのサリムである。また、主人公が恋に落ちる少女の名前はニータで、彼女は主人公が大人になってから娼館で出会った娼婦である。また、ラム・ムハンマド・トーマスが英語を流暢に話せるようになった経緯、列車強盗の話、往年の女優の家で働いた話などは映画版ではカットされている。
 この映画に出演した2人の子役ルビーナー・アリーとアズハルッディーン・イスマーイールの両親が「十分な出演料を受け取っていない」と発言しており、2人の出演料はアズハルッディーンは年間約24万円、ルビーナーは年間約7万円だという。これに対し製作側は、彼らの出演料は同地区の大人が受け取る平均年収の3倍であり、彼らの教育費、生活費、医療費などをまかなうためのファンドもあると反論している。それに加え高校卒業後にファンドとは別に約1300万円が支給されるとしている。ギャラを一括で支払で起こりうる様々なリスクに配慮したためと説明しており、子役の報酬が周囲の大人に搾取されないためだとみられている。またイギリスの大衆紙は、ルビーナー・アリーの父親がアラブ人富豪に扮する記者に約2900万円で彼女の養子縁組を持ちかけたと報じている。父親はこの疑惑を否定したが、別居中の母親が警察に訴えたため同日逮捕されたという経緯があり、人身売買の嫌疑もかけられたりしている。人気クイズ番組という華やかな舞台を借り、ひとりの少年を通して、近代化を遂げるインドで今なお子どもたちを苦しめ続けている社会問題をあぶり出した本作。そのなかで、クイズの出題者を演じている俳優アニル・カプールが、自身が親善大使として支援する国際NGOプランの出生登録プロジェクトに出演料の全額を寄付した、という美談もある。
 様々な苦難を乗り越えてのオスカー受賞だったわけだ。そんなエピソードは関係なく、我々は単に映画としての出来を楽しめばいいわけだ。この映画の舞台となっているクイズ番組の1問1問に彼の過去・背景が関係している。その1問ごとと過去の映像が錯綜して展開してゆく。その裏に隠された人生模様には社会問題があぶり出され、感動を超えた戦慄を覚える。たかが、クイズ、みのもんたとの駆け引きを想像していたとしたら大間違いだ。ラスト、インド映画らしさも醸し出して、何とも悲惨だが痛快で素晴らしい映画だと思う。最初、オスカーで主題歌賞のノミネートを知ったとき、この映画の何とも滑稽なサウンドが2曲もノミネートされ、『レスラー』のブルース・スプリングスティーンの名曲が外れて驚いたが、映画の中に溶け込むとなんて映画を引き立たせる音楽なんだと感心した。ま、とにかく作品賞に当然だと思わせる作り、必見だ。

 
◎作品データ◎
『スラムドッグ$ミリオネア』
原題:Slumdog Millionair
2008年イギリス映画/上映時間:2時間0分/ギャガコミュニケーションズ配給
監督:ダニー・ボイル/原作:ヴィカス・スワラップ/脚本:サイモン・ビューフォイ/製作:クリスチャン・コルソン/音楽:A・R・ラフーマン/撮影:アンソニー・ドッド・マントル
出演:デーヴ・パテール, マドゥル・ミッタル, フリーダ・ピントー, アニル・カプール, イルファーン・カーン
 
 recommend★★★★★★★★☆☆
 favorite     ★★★★★★★★☆☆

 

 マヌエラは38歳の移植コーディネーター。女手ひとつで育ててきた息子のエステバンとマドリッドで暮らしていた。息子は作家志望で、母親のことを書こうとしていた。しかし母のすべてを書くには、大事なことが欠けていた。彼は父親について母から何も聞かされていなかったのである。エステバンの17歳の誕生日、ふたりは大女優ウマ・ロッホが主演する「欲望という名の電車」の舞台を観に行く。それは20年前にアマチュア劇団にいたマヌエラが夫と共演した思い出の芝居だった。彼女はこれまで触れずにきた父親のことを遂に息子に話そうと心に決めていたのだ。だが終演後、ウマ・ロッホにサインをしてもらおうとして彼女の車を追いかけたエステバンは、脇から飛び出した車にはねられてしまう。目の前で息子を失い、絶望するマヌエラは作家を志していたエステバンが肌身はなさず持ち歩いていたノートに書かれた彼の最期の言葉を読むのだった。「昨晩、ママがはじめてぼくに昔の写真を見せてくれた。芝居をやっていた頃の写真だ。ところが、写真の全ては半分に切られていた。切られた半分はお父さんにちがいない。僕の人生が同じように半分失われている気がする。お父さんに会いたい。たとえお父さんがママにどんなひどい仕打ちをしたのだとしても。」マヌエラは、息子に父親が誰であるかをとうとう言い出せなかった。彼女は失った息子の最期の想いを伝えるため、仕事を辞め、かつて青春時代を過ごしたバルセロナへ旅立つ決意をする。マドリッドからバルセロナへ。息子の死を別れた夫に知らせようとマドリードからバルセロナへ来たマヌエラは、ふとしたことからウマの付き人になる。同時に、妊娠したシスター・ロサと同居を始める。ロサは実はマヌエラの元夫の子どもを妊娠していたのだ。赤ん坊が生まれるが、エイズに感染していたロサは死ぬ。葬式の席で、すっかりゲイになった夫に再会し、息子のことを話すマヌエラ。ロサの母親が赤ん坊がエイズ感染していることを恐れるので、新しい息子を守るため彼女は再びマドリードに戻る。数年後、エイズウイルスを克服した子どもを連れ、またバルセロナへやってくるマヌエラ。今度の旅は希望に満ちた旅だった。息子の死の原因となった女優、性転換した売春婦、エイズを抱えて妊娠した尼僧、女性となった元夫など、様々な人々との関係を通して、人生への希望を取り戻していく。
 最愛の息子を事故で失ってしまった母親の、死を乗り越える魂の軌跡を中心に、様々な人生を生きる女たちの姿を描く人間ドラマ。監督・脚本はのペドロ・アルモドバル。アカデミー外国語映画賞、カンヌ国際映画祭監督賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞、ニューヨーク映画批評家協会賞外国映画賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞外国映画賞、英国アカデミー賞監督賞・外国語映画賞、ヨーロッパ映画賞作品賞・女優賞、放送映画批評家協会賞外国語映画賞、セザール賞外国映画賞、ゴヤ賞最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀主演女優賞・最優秀編集賞・優秀音楽賞・最優秀音響賞・最優秀制作チーフ賞、ゴールデン・サテライツ賞最優秀外国語映画賞、ニューヨーク映画批評家賞最優秀外国語映画賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞最優秀外国語映画賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー外国語映画賞、ボストン映画批評家協会賞外国語映画賞、ヨーロッパ映画賞最優秀作品賞・最優秀主演女優賞・最優秀観客賞監督部門、サン・セバスティアン国際映画祭国際映画批評家連盟賞、ブリティッシュ・インディペンデント映画賞最優秀外国語映画賞、全米ブロードキャスト・フィルム批評家協会賞最優秀外国語映画賞、TIME誌年間映画ベストテン 第1位、年エンターテイメント・ウィークリー誌年間映画ベストテン第1位と、数々の賞を総なめにしている。世界中のマスコミから“キャリアの集大成、文句なしの最高傑作”と絶賛を浴びた本作は、愛し、傷つき、悩みながらたくましく生きていく女たちを、独特のユーモアと洗練された映像で描き続けている。全女性に贈られた人生賛歌だ。主役の母マヌエラにアルゼンチンを代表するトップ女優セシリア・ロス、往年の大スター、ベティ・デイビスを彷彿とさせる大女優役にスペインの名花マリサ・パレデス。そして黒い瞳の修道女にペネロペ・クルスなど新旧のラテン諸国を代表する3人の女優が競演。至高の映画『イヴの総て』や、『欲望という名の電車』が劇中に巧みに引用している。タイトルの“All about My Mother”は劇中に出てくる映画『イヴの総て』の原題“All about Eve”を文字ったものでもある。
 マヌエラは、かつてアマチュア劇団に所属していた過去を持ち、映画の冒頭、移植セミナーのシュミレーションのシーンで、息子の死を知らされる母の役を見事に演じる。また後には代役としてプロの舞台にも立ってみせる。俳優ではないが演じる能力を持った人々についての映画を作ろうというのが最初のアイディアだっと監督は語っており、演じる存在としての女性が重要なテーマのひとつになっている。このテーマのルーツは、アルモドバルの子供時代の想い出にまで遡る。『オープニング・ナイト』のジーナ・ローランズ、前述の『イヴの総て』のベティ・デイビス、『L’important c’est d’aimer』のロミー・シュナイダーの3つの映画の女優たちの役どころの精神が、『オール・アバウト・マイ・マザー』の登場人物たちに、煙草、酒、絶望、狂気、欲望、無力感、葛藤、孤立、活力、理解を染みこませている。途中親友のアグラードが公演中止を観客に告げた後、身の上話をする感動的な場面は、昔実際に起きたアルゼンチンの女優ロラ・メンビブレスの出来事に基づいている。
 マヌエラはいつも逃げていた。列車に乗って、数え切れないトンネルを抜けて、最初はバルセロナからマドリッドへ、17年後にはマドリッドからバルセロナへ。そしてその数ヶ月後には再びバルセロナからマドリッドへ。最初の逃亡の時は息子のエステバンをみごもって、息子の父親から逃げていた。父親の名もエステバン。2回目は彼女は息子のエステバンの写真とノートを持っていく。父のエステバンを探し、息子の死を告げるつもりだった。父は息子の存在を知らない。マヌエラは妊娠を知るとすぐに彼から逃げ2度と会いに行かなかったからだ。息子に父は母よりも大きな胸を持ち、ロラという名で呼ばれていたなどと、どうして息子に話せようか。長年の沈黙が犯罪のように女の良心に重くのしかかる。マヌエラはエステバンの父を探すことを自分に命じる。それが彼女の救いになる。彼女はマドリッドには居られない。息子が生き、死んだ街だから。彼女は人々と出会い、バルセロナに住む理由ができる。だが、人々のことを知り過ぎた彼女には逃げる理由もできている。再びバルセロナからマドリッド行きの列車に乗る彼女。その胸には、生後数ヶ月の3番目のエステバンがしっかり抱かれている。彼女はその子を祖母の敵意から守らなくてはならない。赤ん坊はHIVに感染している。祖母はその子に引っ掻かれるだけで感染させられると思っているのだ。2年後、第3のエステバンはウイルスを抑制する力を持っており、マヌエラは彼を調べてもらうためカン・ルチでの会議に彼を連れていくことにする。こうして彼女は第3のエステバンを膝に乗せ、再びバルセロナへ向かう。彼女は子供にパンを与えながら、自分の逃亡の物語を語る。子供は理解しているかのように聞いている。彼女は子供の名前がなぜエステバンなのか、両親はどんな人でどんな風に亡くなり、なぜ彼女が母親となったのかを説明する。バルセロナの祖母も今では心を改めた。エステバンは祖母を愛さなくてはならない。彼女は彼が生まれる前にいたふたりのエステバンのことも教える。この子が大きくなって好奇心が膨らんだら、どんな質問にも答えよう。答えを知らないときは思いつきを話そう。だって即興は得意だもの、と彼女は誇らしげに言う。なろうと思えば女優にだってなれた。でも彼女の唯一の天職は子供たちの世話をすることだった。彼女は子供をしっかり抱きしめる。この映画の持っている魅力はあまりにも多すぎて、上手く整理して語れない。これが100分の中に凝縮されている。是非みんなに観てほしい映画のひとつだ。

◎作品データ◎
『オール・アバウト・マイ・マザー』
原題:Todo sobre mi madre(英語タイトル:All about My Mother)
1999年スペイン映画/上映時間:1時間41分/ギャガコミュニケーションズ・東京テアトル配給
監督・脚本:ペドロ・アルモドバル/製作総指揮:アグスティン・アルモドバル/製作:エステル・ガルシア/音楽:アルベルト・イグレシアス/撮影:アフォンソ・ビアト
出演:セシリア・ロス, マリサ・パレデス, ペネロペ・クルス, エロイ・アソリン, アントニア・ファン・フアン 
  

recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆
  

  ロンドンで働くセバスチャンは、父親レミが癌を患っているとの知らせを聞き、故郷のカナダのモントリオールに帰国した。歴史学教授であったレミは頑固で酒好き、更に女癖が悪い父をセバスチャンは反面教師として育ち、自分はあんな人間にはなるまいと生きてきたのだった。しかしセバスチャンは母に頼まれ、父親の最期の日々を楽しいものにしようと手を尽くした。憎まれ口ばかり叩くレミだが、世界中から集まった友人たちに会い、笑顔を取り戻す。痛みを和らげるため、医者に秘密でヘロイン治療を始めたレミだが、病状は次第に悪化し、セバスチャンは、レミを湖畔の別荘に移すことに。そして遂に、別れの時がやってきた。
 残り少ない人生を謳歌する男と、彼を支える家族や友人達の交流が胸を打つ感動作。監督はカナダの巨匠、ドゥニ・アルカン。ベテラン俳優、レミー・ジラールが偏屈な病人に扮し、シリアスな題材を笑い飛ばす。彼の息子役の人気コメディアン、ステファン・ルソーの熱演も光る。カデミー賞外国語映画賞を受賞し、他にもセザール賞作品賞・監督賞・脚本賞、カンヌ国際映画祭女優賞(マリ・ジョゼ・クローズ)・脚本賞などを受賞。1986年の『アメリカ帝国の滅亡』の続編にあたる。映画解説パンフレットによれば、原題の直訳「蛮族の侵入」が意味するものは、病気であり、新大陸を侵略した白人であり、イスラム教徒を敵視するアメリカ人であるそうだ。
 末期癌で死を目前に控えた父と息子の物語である。享楽的社会主義者を自任する大学教師レミは、父を反面教師に育ち、自分の10倍の年収を稼ぐ息子を「資本主義の申し子」と罵るが、実情はすっかり頼り切りだ。息子は金の力ですべて解決する。病院の買収や鎮痛剤としてのヘロイン調達も仕切り、世界中にいる父の友人や愛人たちを枕元へ呼び寄せる。再会を果たした左翼のインテリ学者たちはシニカルな軽口を叩き、ダンテからプリモ・レヴィまでさまざまな名を口にしつつ、会話は際限のない自嘲に終始する。真理を求め続けながら何も見つけられず、子供っぽさを内包したまま老境を迎えた彼らと、社会人としてはるかに有能な息子との対比には、監督の複雑な思いが見てとれる。日忙しく暮らしている現代人には、「自分の最期をどう生きるか?」とは、疎遠な疑問かもしれない。しかし、最後の瞬間は誰にでもやってくる。どうせなら、大好きな人たちに囲まれて笑顔で過ごしたい。できれば、「愛している」と言ってほしい。『みなさん、さようなら』は、死の瞬間まで生きる喜びを感じさせてくれる、笑いと機知にあふれたコメディ作品。彼らのスマートでユニークな会話は、病気など忘れさせる明るさだが、ふと本音を漏らすレミの姿に、誰もが自分の人生を振り返らずにいられなくなる。レミ役のレミー・ジラールの外見が健康的すぎるのはさておき、泣きと笑いのエピソードを交互に積み重ねる手法は凡庸、しかし、観る側はあらゆる立場から別れを見つめ直す機会が与えられる。「怖いんだ」「死ぬ意味を見つけなければ」というレミのつぶやきに、なんの悔いもなく満ち足りた死とは、実はひどく寂しい最期なのではないか、と思った。2002年以降の多くの作品同様、本作も9・11について触れている。ニュース映像や政治色の強いせりふもあるが、それとは別に歴史学者としてのレミと時代を控えめに重ねた扱いには独自の視点を感じた。登場人物たちはドゥニ監督の作品『アメリカ帝国の滅亡』と同じで、続きとされているが、予め観ておく必要はない。むしろ、『みなさん、さようなら』を見た後で『アメリカ帝国の滅亡』を観ると17年の月日を遡った彼らの姿に、時の流れというものを強く感じるはずだ。先日取り上げた『海を飛ぶ夢』に似た印象を受けるが、こちらの方がユーモラスで風刺の効いた往生物語という感じだ。金の力で友と愛人たちに囲まれ、息子に世話されて苦しみを除去して死んでいく、この無痛文明の極地をいくかのような死に方は果たしてよいことなのか。ここが問題提起となる映画だが、まず日本ではありえない最期、誰もが避けて通れない「死」を観て目てみると、鑑賞後、涙が溢れそうになる。病と闘わなかったレミ。どちらがいいか悪いかではなく、これもまたひとつの選択だと思いながら観終えた。ラストシーンはさわやか。レミが最後まで愛着をもった知的世界が若い世代に引き継がれ、同時にヘロイン中毒の若者を再生させることを予感させる。

◎作品データ◎
『みなさん、さようなら』
原題:Les Invasions barbares(英語タイトル:The Barbarian Invasions)
2003年カナダ・フランス合作映画/上映時間:1時間39分/コムストック配給
監督・脚本:ドゥニ・アルカン/製作:ドゥニ・ロベール, ダニエル・ルイ/音楽:ピエール・アヴィア/撮影:ギイ・デュホー
出演:レミー・ジラール, ステファン・ルソー, ドロテ・レミマン, マリナ・ハンズ, マリ・ジョゼ・クローズ
 
recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆
  

 1863年、南北戦争で分裂したアメリカに南部の独立を支持したイギリスは、カナダのハリファックスに軍隊を送り込んだ。そこに商船で渡航した乗客たちが上陸する。その中に若く美しい女性の姿があった。検問をすり抜けて馬車の乗った彼女は、御者のオブライエンにサンダース家の下宿を紹介される。彼女はミス・ルーリーと名乗って下宿した。彼女はパリの医師ルノルマンの妻と名乗って公証人ルノワールを訪れる。姪の婚約者ピンソン中尉について内密に調査してほしいというのだ。本屋でピンソン中尉を見かけた彼女は、店主のホイスラーから借金が多いなどピンソンに良くない噂が多いことを聞かされる。ビンソンにはその気もないのに恋文を出したり追い回したりする彼女。彼女の本名はアデル。そして両親からの送金で食いつないでいる。アデルの行動は、日増しに狂的になっていく。心労のたまったアデルは手紙用の紙を購入する本屋の前で倒れてしまう。病床でアデルは両親にピンソンと婚約したと手紙を書く。サンダース夫人に手紙の投函を頼まれた医師は、宛先が文豪ヴィクトル・ユーゴーであることに気づく。アデルはユーゴーの次女だった。ピンソンが宿舎にもどると上着のあちこちに恋文が入れられていたりする。ある日、父からの結婚同意書が届いた。同意書を見てもピンソンに結婚の意志はないので、アデルは、これでお別れだからと涙ながらに訴えピンソンにキスさせる。それでもアデルは両親にピンソンとの結婚を報告した。ピンソンからの手紙で結婚が偽りであり可能性もないことを知ったユーゴーは、アデルに帰国するよう連絡する。だがアデルにピンソンから離れる意思はなかった。奇矯な行動をエスカレートさせるアデルは、売春婦をピンソンの元に行かせる。アデルは帰国の準備を始め、サンダース家を出ても実際に去ることはできず浮浪者向けの無料宿泊所を紹介してもらう。服装もボロボロになったアデルに、父から母が病気療養に移転してひとりぼっちだから帰って来てほしいと手紙が届く。それでも彼女はカナダの町をうろつき続ける。やがて母親の訃報が新聞に掲載された。ピンソンの隊はバルバドス島に移動。後を追ったアデルは黒人地区で倒れ、地元の黒人女性に助けられれる。ピンソンは倒れて看病されているアデルがピンソン夫人と名乗っていることを知らされた。やがて街を徘徊するアデルの姿を見つけたピンソンは後を追う。だが、アデルはピンソンが目の前に立って声をかけても、彼を見止めることはなく歩んでいってしまう。精神を病んだアデルは黒人女性に連れられて帰国し、約40年を精神病院で暗号による日記を書いて過ごす。父ヴィクトル・ユーゴーは1885年に「黒い光が見える」と言い残して死んだ。誰よりも長く生きたアデルが死んだのは1915年4月のことだった。
 フランセス・ヴァーノア・ギール著の「アデル・ユーゴーの日記」をもとに、文豪ヴィクトル・ユーゴーの次女アデルの狂おしい愛情を描いた力作。イザベル・アジャーニの出世作。製作・監督は名匠フランソワ・トリュフォー。彼にとっても、代表作のひとつとなった。
 ハリフォックスのシーンはガーンジー島で、バルバドス島のシーンはアフリカのセネガルの首都ダカールの真向かいにあるゴレー島で、それぞれ撮影されている。トリュフォーは本作の企画を6年間温めていたが、テレビでイザベル・アジャーニを見て、すぐさま彼女のために脚本を書き上げたという。のちに、アジャーニは「この映画のおかげで今の私がある」と語った。実際にアデルがカナダに渡ったときの年齢は33歳であり、当時18歳のイザベル・アジャーニとは年齢にひらきがある。が、そのことについてトリュフォー監督は「誰もそんなことは考えないだろうよ」と答えただけだったという。しかし、恋に取り憑かれた女性の執念は怖い。自分の精神まで狂わせてしまうのだから。その後のイザベル・アジャーニの活躍や役選びを観てもこの作品が原点にあることは明らかだ。とにかく女性は怖いと思い知らされた作品だ。

◎作品データ◎
『アデルの恋の物語』
原題:L’Histoire d’Adèle H.(英語タイトル:The Story of Adele H.)
1975年フランス映画/上映時間:1時間36分/ユナイト配給
監督・製作:フランソワ・トリュフォー/原作:フランセス・ヴァーノア・ギール/脚本:フランソワ・トリュフォー, ジャン・グリュオー, シュザンヌ・シフマン/音楽:モーリス・ジョベール/撮影:ネストール・アルメンドロス
出演:イザベル・アジャーニ, ブルース・ロビンソン, シルヴィア・マリオット, ジョセフ・ブラッチリー, イヴリー・ギトリス

recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆
 
 

 20世紀初めのアメリカのモンタナの牧場。元騎兵隊の大佐じゃったウィリアム・ラドローは、殺戮を繰り返す。政府のインディアン政策に嫌気がさし、戦いの記憶から逃れるため、軍隊を引退してモンタナに牧場を持ち、この地に定住して3人の息子たちの成長を見守る。ウィリアムは中でも狩りを好む野性児の次男トリスタンに、ことのほか愛情を注いだ。ウィリアムはインディアン人の牧童を使って、広い牧場を維持していたが、ウィリアムの妻はモンタナの冬の厳しさにまいってしまい、3人の息子を置いて、ひとりだけ街に住む事になり別居生活を始める。厳しい父に躾けられた、長男アルフレッド、次男トリスタン、三男サミュエルの3人兄弟は大変仲が良く、特に末っ子のサミュエルは2人の兄からも、非常にかわいがられて育つ。サミュエルは東部の大学に進学し、大学で知り合ったスザンナと婚約し、スザンナを連れて帰郷する。両親を早くに亡くしたスザンナの清楚な美しさと知性あふれた魅力に、アルフレッドとトリスタンも強く惹かれる。家族4人の男所帯にスザンナが加わり、暖かで静かな生活がしばらく続くが、第一次世界大戦がヨーロッパで始まり、世界の情勢を憂うサミュエルは、戦争嫌いな父の猛反対を無視し、スザンナを家に残したままイギリス軍に志願し、ヨーロッパの戦場に赴く。サミュエルを守る為、アルフレッドとトリスタンもイギリス軍に志願し、3人は同じ部隊で、いつも一緒にいた。しかし、トリスタンがちょっと目を離した隙に、兄に内緒で斥候に出掛けたサミュエルが戦死してしまう。アルフレッドとトリスタンは除隊し、家に帰るがトリスタンはサミュエルの戦死の責任を感じ、落ち込む。そんなときトリスタンとスザンナは、互いに惹かれ合い、ふたりの間に愛が燃え上がる。秘かにスザンナを思い続けとった長男のアルフレッドは、ふたり関係を知り、家を出て町で事業を始め、それが成功し、やがて政治家になるまでに出世する。トリスタンは突然スザンナとの穏やかな生活を捨て、家を飛び出し、船乗りになり消息を絶つ。スザンナはトリスタンの帰りを待ち続けるが、トリスタンからの別れの手紙で、以前から求婚されていたアルフレッドと結婚して町で暮らすようになる。何年かして、トリスタンは突然フラリと帰って来て、牧童頭の娘で小さな時から妹の様にして育ったネイティヴ・アメリカンとの混血で使用人の娘であるイザベラと結婚し、子供をもうける。トリスタンの永年の留守の間に父ウィリアムも老い、牧場は寂れてしまった。そこでトリスタンは、禁酒法に目をつけ、カナダから酒を密輸入して、もぐり酒場に売って儲けるが、町を縄張りにしとるギャング兄弟に目をつけられる。ある日、警察の待ち伏せに遇い、威嚇射撃の流れ弾でイザベルが命を落とす。刑務所に入ったトリスタンをスザンナが訪ね、いまだ消せぬ彼への思いを告白する。だが、彼は拒絶し、その夜、スザンナは自殺した。トリスタンは、銃を撃った警官に復讐を遂げた。スザンナの遺体はモンタナに運ばれ、再会したアルフレッドはトリスタンに、「私は神と人間のルールに従ってきた。お前は何事にも従わなかったが、皆はお前を愛した」と言った。トリスタンは、兄に子供を預かってくれるよう頼み、現れた警察は彼に銃を向けるが、父と兄が危機を救った。トリスタンはまた野の人となり、長年の宿敵だった熊と戦って、1963年に死ぬのだった。
 遙かなるオールド・ウエストを舞台に、愛に素直に生きられない青年と、彼を想い続けた女性の悲しい愛の軌跡を描いた大河ロマン。現代アメリカ文学の人気作家ジム・ハリソンの中編小説を、エドワード・ズウィックの監督で映画化。脚本はスーザン・シリディとビル・ウィトリフ。カナダ・ロケで美しい自然をとらえた撮影はのジョン・トール。
 大河ドラマという意味で、しっかり観せてくれる。自然豊かな田舎の牧場を舞台にして、ある一家の波瀾万丈の歴史を描き出し、丁寧な構成と描写で、2時間以上の長さを感じずに、観れてしまう。この監督のこだわりであるカメラの綺麗さ。ロケ地の選び方もよかったが、シャープさと構図の良さで、空気が澄んでいる感じがする。主演のブラッド・ピットはインディアンの風習にひかれ、野性を内に秘めながら、父の躾により、その野性味を抑制し、弟のためにもそれを表に出さない青年を好演している。アンソニー・ホプキンスの一徹な父親も彼の持ち味を実に自然に表現している。ストリー展開はは全体的に内容がぎっしり詰まっており、最後まで気が抜けないん。腰を据えて集中して観たい作品だ。

◎作品データ◎
『レジェンド・オブ・フォール 果てしなき想い』
原題:Legend of the Fall
1995年アメリカ映画/上映時間:2時間12分/コロンビアトライスター配給
監督:エドワード・ズウィック/脚本:スーザン・シリディ, ビル・ウィトリフ/原作:ジム・ハリソン/製作総指揮:パトリック・クロウリー/製作:エデオワード・ズウィック, ビル・ウィリトフ, マーシャル・ハースコヴィッツ/音楽:ジェームズ・ホーナー/撮影:ジョン・トール
出演:ブラッド・ピット, アンソニー・ホプキンス, エイダン・クイン, ジュリア・オーモンド, ヘンリー・トーマス

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆
 
 

 1970年代初頭、北海に面したスコットランド北西部の寒村。戒律の厳しいカルヴィン主義が支配するこの村で、敬虔な信者のベス・マクニールは、よそ者のヤンと結婚する。北海油田の採掘現場で働く彼が留守になると、独り、神と対話を繰り返すベスだった。ベスの義姉ドドやヤンの同僚たちは心から祝福するが、ここは厳格なプロテスタント信仰が根強い排他的な土地。教会の長老たちなどは白い眼を向ける。幸福に満ちた新婚生活も束の間、ヤンは油田に戻らねばならず、残されたベスは彼からの電話だけを楽しみに生きる。ところが、ある日、ヤンは現場で頭に重傷を負い、全身麻痺となってしまう。命だけは取り留めたが、全身麻痺のまま回復の見込みはない。神は「お前の望み通りヤンを返した。これからお前の愛が試されるのだ」と告げる。ベスと看護婦であるドドは献身的に介護するが、ヤンは絶望して自殺さえ図る。「もうお前を抱くことはできない。愛人を見つけて、その時のことを話してくれ」というヤンは言った。ベスは夫の言葉を信じ込んで、男たちと関係を持ちはじめ、ついに娼婦に身を落とす。ベスは「お前の愛の証をみせよ」という神の命令に従い、ドドとヤンの主治医リチャードソンの忠告も、このままでは教会から追放されるという母の嘆きも耳に入らない。リチャードソンはベスを救うには精神病院に入れるしかないと判断し、自分の言葉が妻を破滅させつつあると悟ったヤンも同意書に署名する。ベスは病院に向かう車から逃げ出すが、家には受け入れられず、教会からは追放され、子供たちに石を投げられて追われる。疲れ果てたベスはドドにヤンが危篤だと知らされ、沖合に停泊する不気味な大型船に向かう。やがてその船長らにナイフで滅多刺しにされたベスが病院に担ぎ込まれる。ベスはヤンの病状がまったく好転していないと聞き、では自分が間違っていたのだと言い遺して死ぬ。ヤンは奇跡的に回復する。ベスを教会に埋葬すれば葬儀も行えず、地獄へ行くと宣告される。ヤンは妻の遺体を密かに盗み出し、海上油田で海葬に付した。翌朝、遙か天空高くの雲のなかに鐘が顕現し、その音色が海上一面に響き渡った。
 全8章、2時間38分からなる、濃密な愛の物語。手持ちのカメラで撮影された映像は絶えず不安定に揺れ、あたかもドキュメンタリーを見ているかのような生々しさを放っている。監督・脚本はのデンマークの映画作家ラース・フォン・トリアー。各章の冒頭には、プロコル・ハルム、エルトン・ジョン、ディープ・パープル、レナード・コーエン、デイヴィッド・ボウイら、映画の舞台となる1970年代のロックが画面を彩る。各章冒頭のタイトルにはペル・キルケビーのデザインによる、現実の風景ショットにデジタル加工を加えた動く風景画のような象徴的なパノラマが挿入されている。主演は本作が映画デビューとなる舞台俳優だったエミリー・ワトソン、ストックホルム王立劇団メンバーであるステラン・スカルスゲールド。カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを、ヨーロッパ映画賞で3部門を受賞した。また新人エミリー・ワトソンの鬼気迫る演技には高い評価が寄せられ、ヨーロッパ映画賞年間女優賞、全米映画批評家協会賞、ニューヨーク批評家協会賞、英国アカデミー賞女優賞などを受賞したほか、アカデミー主演女優賞にもノミネートされた。
 厚い雲がたれこめるどんよりとしたスコットランドの片田舎を舞台に、信仰心は厚いが少し頭の弱いベスと、油田夫ヤンの究極の愛の物語。日本人には判りづらい、犠牲と貞操観念と信仰の物語。愛しすぎて、幸せなことが怖いベスと、ヤンの新婚夫婦。出稼ぎでヤンのいない淋しさから、どんな形でもいいからヤンを戻してくださいと神に祈るベスに対して、事故により全身麻痺となったヤンの帰還という形で叶えられる。夫の、愛人を作り、その行為を俺に話してきかせろという要求に、始めは嫌がりながらも、それに従う妻。売春婦まがいのベスの行動は村の教会の逆鱗に触れ彼女は村八分。問題の行為も、暴力的な男たちに出会うことによって精神的にも肉体的にも追い詰められてゆくベス。ここでいう犠牲とは、自分がいちばん大事にしているものを捧げること。このベスの場合、愛する男がいながら不本意にも他人とセックスをしなければならない、いわば肉体ではなく尊厳すら投げ捨てなければならないという行為こそが生贄なのであり、ヤンを助けるための究極の試練なのである。どれだけ不徳な行為も、夫の狂った指示も、神の言葉に置き換え、狂信的でさえある。ベスは頭の弱い女性として描かれているが、決してバカではない。自分で神の言葉を語ることによって、常識を得ようとする立派な女性だ。最後、彼女は死が待つ場所へ、知りながらも向かっていく。奇跡を完遂させるために。愛する男の命を守るべく、自分の魂を捧げるベス。それはあまりにも無垢な彼女だからできた、究極の奇跡だと思う。この彼女の行為が果たしてただの狂信なのか、奇跡なのか、それはわからない。しかしこのエミリー・ワトソンという女優のデビュー映画とは思えない舞台で鍛え上げられた演技力。薄い上唇をへの字に曲げてだたをこねる姿やいかにも精神薄弱と思えるような笑い方、彼女の微妙な動きと、愛らしくてつぶらな瞳が、動きがどこか奇矯で、怖くさえ見える。エミリー・ワトソンの映画であるとも言える。
 ヒロインのベスの頭に難があること。舞台となる村落が宗教的に厳格であること。そして、事故にあって不随となる夫の無茶な要求のこと。それらが総て描かれ、全体が纏まっている。これは究極のラヴストーリーであり、酷すぎるトラジディだ。

◎作品データ◎
『奇跡の海』
原題:Amor Omnie(英語タイトル:Breaking the Waves)
1996年デンマーク・スウェーデン合作映画/上映時間:2時間38分/ユーロスペース配給
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー/製作総指揮:ラーシュ・ヨンソン/製作:ヴィベケ・ウィンデルフ, ペーター・アールベック・ヤンセン/音楽:レイ・ウィリアムズ/撮影:ロビー・ミューラー
出演:エミリー・ワトソン, ステラン・スカルスガルド, カトリン・カートリッジ, エイドリアン・ローリンズ, ウド・キアー

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆