Archive for 5月, 2008


carrie
 アメリカのメイン州チェンバンレンの高校に通うキャリーは冴えない容姿と引っこみ思案な性格からいつもいじめを受けていた。ある日体育の授業の後、シャワーを浴びていた彼女は初潮を迎える。それをはやし立てるクラスメイトたちに彼女はショックを受けた。母親は狂信的なキリスト教信者で肉体の成長は邪悪の顕れだといい、キャリーを折檻した。キャリーはいつしか病的に敏感になり、興奮すると念動能力が備わってきているのに本人も気づいていた。キャリーをいじめていたクラスメイトたちが春の卒業前のパーティの参加を禁止される中、近所に住むスーだけは彼女への態度に反省をし、男子生徒のエスコートの不可欠なパーティに恋人のトミーを貸し出した。キャリーを嫌っていた他のクラスメイトはこのことで逆に反感を抱き、ある策略を練った。それは、パーティでベストカップルをトミーとキャリーが選出されうよう裏工作をし、発表の舞台の上でキャリーの頭上から大量の豚の血を浴びせるというものだった。果たしてその最大のいじめは実行された。クイーンに選ばれ、涙ぐむキャリーの上に降り注ぐ血の雨、ピンクから真っ赤に色を変える手製のドレス。彼女はショックでその場に立ち尽くす。いつしかそれは怒りとなって増幅され彼女の念力で会場は火の海と化した。茫然と会場を後にするキャリー。家に帰り血に染まったドレスを脱いでシャワーを浴びた後、母に憐憫を乞うキャリーに母はついに悪魔がやってきたと娘をナイフで刺してしまう。キャリーのどうようは頂点に達しキャリーの念力によって家は破壊された。スーを除くすべての人たちが死んだ。しかしスーも精神に異常を来してしまったのだった.。
 これをホラーのジャンルでの初紹介と決めて改めて映画を観たが、何度見てもショッキングな映画だ。原作がこれもスティーブン・キングだったと今知った。当時新人女優だったシシー・スペイセクの初ヒット作品で、世界的に超能力がブームになるほど大ヒットした。シシー・スペイセクはいかにもいじめられやすそうなキャラクターもうまく演じているし、これがパーティでドレスを着飾ると見事に輝きを増すヒロインに変わる。そして何といっても精神錯乱に陥った時の表情のおぞましさ、彼女はこの頃からすでに天才女優だったんだな、と思う。残念ながらこの印象が強くついてしまい、彼女が再び演技派女優として花開くのはかなり時間がたってからになってしまう。しかしまた最近賞レースなどにもよく登場するようになり、この映画のイメージは払拭されたようだ。
 この映画はホラーというよりは超能力もあってオカルトに近いかも知れない。まず、冒頭にシャワールームで血を流し初潮をからかわれるシーンがこの映画のイメージを決定づける。シャワールームの隅で座り込みクラスメートの罵声を受けるシーンは血が流れていることもあり、ホラー的な描かれ方をしている。アジアでは初潮は神聖なるものとして祝いごととなり、こんな描き方をしたら冒涜ともとられかねない。ここでの陰惨ないじめを母が理解し優しく宥めてくれたら彼女にこんな体質は顕れなかっただろう。なぜこんなに周りの人たちは陰険な人間ばかりなんだろうと思えるほどである。唯一といっていいほどの理解者だった女性教師のような優しい性格の母親だったら、と思う。母親の育て方や接し方は子供にいかに影響を与えるかを強調しているような映画だ。まあ、ボクも価値感がもうすこし母と似ていれば、こんな変な人間にはなっていなかっただろうと思ったりもする。
 ラスト、ただ一人生き残ったスーがベッドで夢を見ているシーン、ここでキャリーのお墓に花を添えるとき、墓から血に染まったキャリーの手が突如土から出てきてスーの手を掴む、スーはベッド上で脅え苦しむ。今となってはこの常套手段たるホラーのエンディングのシーン、もうすべてが終わって平和になったと見せかけて最後もう一回脅かしてみせる、これにまた驚いてしまうボクたちがいるわけだ。まんまと作り手の策略にひっかかかる。でも、それが楽しくなってきたり、飛び散った肉片を美味しそうだと思ったりできたら、もうホラー映画のとりこになっていると言っていいかもしれない。
 そうだ、ボクはもう週に1度は血を見ないといられなくなってしまっているのだから。
 
 ◎作品データ◎
『キャリー』
原題:Carrie
1976年アメリカ映画/上映時間1時間38分/ユナイト映画配給
監督:ブライアン・デ・パルマ/製作:ポール・モナシュ/原作:スティーブン・キング/脚本:ローレンス・D・コーエン/音楽:ピノ・ドナジオ/撮影:マリオ・トッシ
出演:シシー・スペイセク/パイパー・ローリー/エイミー・アービング/ウィリアム・カット/ナンシー・アレン
 
recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆

farewell my concubine
 1930年代の中国の北部、娼婦の私生児である小豆子は、生まれつき本の指を持っていた。それを理由に入所を拒まれていた彼は、母親から指を1本切り落とされ無理やり捨てられるように京劇俳優養成所に預けられた。娼婦の子といじめられる小豆子をいつも助けてくれたのは、先輩の石頭。やがて小豆子は、石頭に同性愛的な想いを抱くようになる。成長した小豆子と石頭は、それぞれ程蝶衣と段小樓という芸名で、『覇王別姫』という芝居で項羽と虞美人を演じトップスターになる。蝶衣は相変わらず小樓を想っていたが、日中戦争が激化すると、小樓は娼婦の菊仙と結婚。深く傷ついた蝶衣は京劇界の重鎮・袁四爺の庇護下で小樓との共演を拒絶した。1960年代になると、中国全土に文化大革命の嵐が吹き荒れ、京劇は堕落の象徴として禁止されてしまう。芝居しかできない蝶衣と小樓も世間から虐げられるようになり、蝶衣、小樓、菊仙の3人は、極限まで追い詰められる。そして彼らの互いへの愛憎と裏切りの果てには、大きな悲劇が待ち受けていた。
 1993年のカンヌ映画祭で『ピアノ・レッスン』と同票でパルムドールに輝いた本作は3時間弱に及ぶ大作である。ゴールデングローブ賞、ニューヨーク映画批評家賞、ロスアンゼルス映画批評家賞の外国語映画賞も獲得している。監督のチェン・カイコーは映画監督の父とシナリオライターの母の間に生まれた映画監督になるべくしてなった環境で育ち『黄色い大地』で監督デビューした。デビュー作でいきなり認められ『人生は琴の弦のように』などの秀作を経て本作に至るが、以後も『始皇帝暗殺』などの大作を作り上げ『キリング・ミー・ソフトリー』でハリウッドデビューも果たす。個人的にはハリウッド進出後の『北京バイオリン』がとても好きだ。
 一方、俳優陣も注目せざるを得ない。女形の蝶衣を演じたレスリー・チャンはアイドルを経てこのころからキャリアを踏んだ俳優に転向し大成功したと言える。2003年の4月1日香港の最高級ホテル、マンダリンオリエンタル香港から飛び降り、自殺しているのが悔やまれる。46歳だった。私生活でもホモセクシャルを公言しており、自殺1年くらい前から欝病を患っていたと言われている。この仕種は本当に女性かと思わせるしなやかさだ。そして、小樓の妻菊仙を演じたコン・リーも今はもう大女優の域に達しているが、この頃は凄い女優が出てきたと度肝を抜かれた。彼女の情念を感じる演技は恐ろしいほどである。
 子供の頃の養成所での厳しさは文化や芸術の重みを感じさせるが、そこに生まれる戒律は、今日劇に対するこだわりや頑固さにつながっているが、それは自信でもあり、失うと大きな痛手となるものだ。なんだか周囲の無理解や不条理がレスリー・チャンの実生活と重なる。レスリー・チャンはこの役柄が役の捉え方を間違っている、俳優としての彼を認めない、と自分の役を分析している。果たして彼は実生活で何を信じ、何を演じ、何を求めていたのだろうか。何に迷っていたのだろうか。
 しかし、この映画では、そういった特殊な世界であるだけでなく、清朝崩壊後、文革期への時代背景、共産党政権樹立、廬溝橋事件など数々の事件や日中戦争、文化大革命、人民軍解放など社会的事件や戦争、革命が複雑に絡み合い、そこに深い嫉妬や憎悪が渦巻く。後半は人間裁判に及ぶ。蝶衣と小樓を尋問するシーンの連続は痛みしか感じない。そしてなぶり者にされての暴露シーン、お互いがお互いを非難するしか道はなかったのか。同性愛と兄弟愛と夫婦愛、それぞれが深いはずなのに、なぜこうなってしまうのだろうか。3時間弱悲惨なシーンを見続けるのはとても体力のいるものだ。だが、そこにはどうしようもない背景と、どうしようもない欲望と、どうしようもない嫉妬と、どうしようもない憎悪が連鎖のように描かれていて、あまりに凄まじく、同情とか憐憫の範疇を超えて、観ていて辛い。
 禁断の愛と歴史の傷、簡単にふたつの言葉では言い表しえない奥深さが、ボクの胸を突いてやまない。

◎作品データ◎

『さらば、わが愛 覇王別姫』
原題:覇王別姫(英語タイトル:Farewell My Concubine)
1993年香港・中国合作映画/上映時間2時間52分/ヘラルドエース=日本ヘラルド映画配給
監督:チェン・カイコー/製作:トン・チュンニェン, シュー・フォン/原作・脚本:リー・ピクワー/音楽:チャオ・チーピン/撮影:チェン・ホワイカイ/京劇指導:シー・イェンシェン
出演:レスリー・チャン/チャン・フォンイー/コン・リー/ルォ・ツァイ/クー・ヤウ
 
recommend★★★★★★★★★☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

stand by me
 ゴーディ・ラチャンスは、「弁護士クリス・チェンパーズ刺殺される」という新聞記事を目にした。クリスは、ゴーディの少年時代の親友だったのだ。彼が12歳だったころ、オレゴン州キャッスルロック、ゴーティはこの田舎町で生まれ育った。彼とクリス、テディ、バーンの4人は、いつも一緒につるんでいた。行方不明になっている少年の死体の居場所が分かったという事を兄から盗み聞きしたバーンは、仲間の3人に話をした。4人は「死体を見つければ英雄になれる」と考えたのだ。兄たちの制裁を振り切って線路づたいを歩いて死体探しに出かける。果たして死体はあるべきところにあった。リーダー格のクリスとひ弱な少年ゴーディは旅の途中、野宿で過去を打ち明け心から打ち解けられる親友となったのだった。
 1950年代末期を舞台にノスタルジックな少年の青春を描いた映画の傑作として有名である。モダンホラーの帝王スティーブン・キングの非ホラー集「恐怖の四季」の4つの中篇小説中に収められた秋の物語「THE BODY(死体)」の映画化である。
 オレゴン州の小さな町キャッスルロックに住む、それぞれ心に傷を持った人の少年たちが好奇心から、線路づたいに死体探しの旅に出るという、ひと夏の冒険を描いている。ちなみに、原作ではキャッスルロックはメイン州に存在する。アカデミー脚色賞にノミネート。ゴールデングローブ賞を受賞した。また、この映画で使われたことによりベン・E・キング が歌う同名の主題歌もリバイバルヒットした。現在でも評価は高くマニアは「人生において二度観る映画」と有名だ。一度目は少年時代に、二度目は大人になってから。
 監督は、ロブ・ライナー。なにが起きてもおかしい年頃、よく笑い、ささいな事で怒り、突然不安に襲われたりする、それは4人それぞれが心に傷を持っていたからだ。少年期特有の心情がつぶさに描かれており、少年時代の田舎の原風景をうまく背景にして、ノスタルジーを強調する。かつては誰もが少年だった、そんな男たちの琴線に触れてやまない一編である。そして、主題歌が、何にもましてこの作品の切なさを代弁している。
 スティーンブン・キングの他の多くの作品と同様に、原作は舞台がメイン州だが、映画では風景を重視してオレゴン州に変更され、撮影もオレゴンで行われた。2005年に発売されたDVDには2005年時点のスタッフやキャストのインタビューが収録されている。勿論、リバー・フェニックスは既に死去しているが、他のスタッフやキャストが彼について語っている。日本では嵐の相葉雅紀・二宮和也・松本潤や生田斗真、Ya-Ya-yahなどのジャニーズタレントによるキャストで舞台化されている。また市川海老蔵がクリスを演じたこともあった。
 今でこそ、『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』などスティーブン・キングの非ホラー作品も普通に映画化されるようになったが、当時は非ホラー作品を映画化することは非常に勇気のいることだったようだ。小説に知性が感じられたからロブ・ライナーは映画を決意したという。4人の個性が力強く描かれており、キャラクター作りは容易だったとらしい。そしてその4人の個性を見事に演じて見せた4人のキャラクターがさらに作品を固めていったと感じる。脇を演じる兄のキーファー・サザーランドもいいし、大人になったゴーディをわずかな時間ながら繊細に演じたリチャード・ドレイファスもとてもいい。
 リバー・フェニックスが23歳で死去したとき「『スタンド・バイ・ミー』で煙草を吸う少年を演じて一躍有名になったリバー・フェニックス」と各新聞紙が挙って書いた。この映画では、もちろん、秘密の木の上の小屋で4人がカードゲームをする時、煙草を吸うが、確かに印象的なシーンではある。しかし、何といっても醍醐味は、野宿のシーンでゴーディにクリスが過去を語るシーンだ。いつも給食費を滞納しているクリスが何とか金策して持ってきた給食費を担任の女性教師がねこばばして翌日新しいスカートをはいてきたと打ち明けるのだ。誰もが、いつも給食費を払わないクリスの方が嘘をついていると疑う。彼はその時の悔しさを忘れず、弁護士になってみせると決意するのだ。がき大将のクリスが泣いて打ち明けるシーン、ここで既にリバー・フェニックスは大輪の花を咲かせる予感をさせる演技をしているのだ。

◎作品データ◎

『スタンド・バイ・ミー』
原題:Stand by Me
1986年アメリカ映画/上映時間1時間29分/コロンビア映画配給
監督:ロブ・ライナー/製作:アンドリュー・シェインマン, レイノルド・ギデオン, ブルース・A・エヴァンス/原作:スティーブン・キング/脚本:レイノルド・ギデオン, ブルース・A・エヴァンス/音楽:ジャック・ニッチェ/撮影:トーマス・デル・ルース
出演:ウィル・ウィートン/リバー・フェニックス/コリー・フェルドマン/ジェリー・オコネル/キーファーサザーランド
 
recommend★★★★★★★★★☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆

No.0012 『ペレ』

pelle erobreren 2
 1900年頃のデンマーク、スウェーデンから移民を乗せた船が、ボーンホルム島に到着した。ラッセとペレのカールソン父子は、「夢の楽園」を想像し、仕事を捜しに方々を訪れたが、老人と子供という理由でなかなか職に就けなかった。最後にやって来た石の農園の管理人にようやく拾われ、牛小屋で暮らすことになった。移民の子のペレにはつらい日々だったが、ラッセは怒りに駆られるだけで何もする術がなかった。ペレをかばうのは、いつかアメリカに行くことを夢みている同じ使用人のエリックだった。新学期が始まりペレは学校に入学するが、農園では主で女たらしのコングストルップ氏の夫人に可愛がられ、農婦たちの人気者でもあった。コングストルップの私生児のルズも友達になった。しかしルズは期末試験の日に島を去り、その船主の息子ニルスとの間の嬰児を殺したアンナが警察に逮捕され、絶望したニルスも、難破船を救いに嵐の海に出て死んだ。そして管理人からできもしない無理難題を命じられたエリックは、怒りに任せ管理人に襲いかかり、その最中の事故で頭を強打し、廃人となってしまう。ある嵐の日、ペレがオルセン夫人の家に厄介になったことから、ラッセは夫人と親しくなり、彼女との結婚を決意する。夫人の夫は漁に出たきり帰って来なかったのだ。その頃農園ではコングストルップ夫人が、姪のシーネ嬢に夫が乱暴を働いたことを知り、ハサミで夫の性器を切り取ってしまうという事件が起きていた。新しい母ができることにペレは喜んでいたが、オルセン氏が島に戻ってきてしまい、父の結婚はお蔵入りになってしまった。ペレは学校でクラスメイトから“オルセン夫人のヒナドリ”とからかわれ、学校に行かなくなる。ペレは春が来たらここを出て世界を征服しよう、と廃人となったエリックに話を持ち掛ける。やがてペレは、コングストルップ夫人から新しい管理人助手を命じられるが、制服の仕立ての日エリックが農園から連れ去られる光景を目撃し、彼もこの農園を出ていこうと決意する。老いた父に旅の余力は残されておらず、父を牛小屋に残し、ペレはひとり雪原を歩き始めた。
 ラッセとペレ、老いた農夫と幼い息子のスウェーデン人父子の移住に絡む過酷な運命を描いた大作、石の農園での重労働、イジメに耐えて成長する少年ペレの姿を感動的に描く。映画の冒頭でのペレはラストシーンでは強く逞しくなった青年に見える。原作は、マーティン・アナセン・ネクセの大河小説「勝利者ペレ」。映画はその幼年時代を描いている。ペレの成長していく様子が、北欧の雄大な自然を描くことで困難に立ち向かっている様を背景にしているようで感動を誘う。
 この作品は1988年の第61回アカデミー賞外国語映画賞を始め数々の賞を受賞した。先んじてカンヌ映画祭でこの映画がグランプリを獲ったことで俄かに脚光を浴びた。その年の各国の外国語映画賞は総なめにしたと言ってよい。しかもビレ・アウグスト監督の次作『愛の風景』も再びカンヌでグランプリを獲ったから凄い。でも、残念ながらこの2作が監督のピークだったかもしれない。しかし、この映画は、本当に強く逞しくなってゆく少年の映画だから美しい。貧しさの中に見え隠れする希望があるわけでない、ただやみくもに悲惨で陰惨たる物語だ。映画が終わって、果たして少年は世界を制覇できるのかもまったくもって不安なほどで旅に出るというよりは逃げていくといった状況に近い。なのに、ペレを演じる少年の表情や姿勢には強い意思が感じられるのはなぜだろう。何度観ても、ボクは負けない、と思える映画だ。喜びと切なさを希望に変えて旅立つ大自然の映像の中に遠ざかったペレが、その後幸せでいたことを心から望んで止まない。

◎作品データ◎

『ペレ』
原題:Pelle Erobreren(英語タイトル:Pelle the Conqeror)
1987年デンマーク・スウェーデン合作映画/上映時間:2時間30分/フランス映画社配給
監督・脚本:ビレ・アウグスト/製作:ベア・ホルスト/原作:マーティン・アナセン・ネクセ/音楽:ステファン・ネルソン/撮影:イェリエン・ペルション
出演:マックス・フォン・シドー,ペレ・ベネゴー,エリック・ポスゲ,アストリズ・ヴェラウメ,アクセル・ストロビュー
 
recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★★★☆

the power of one 
 1930年代の南アフリカ、ここで生まれたイギリスの少年PKは、両親を亡くし、寄宿学校に預けられた。リベラルな初老のピアニストであるドクに、音楽を教わった彼は同時に、大自然の中では人間はみな平等であることを教わり、やがて囚人のコーラスを指揮、自虐に陥った彼らと自己表現の喜びを共有する。そして幼い頃から、囚人のリーダーであるピートにボクシングを教わり、熟練した力を持った彼は、自らすすんで黒人選手と闘うことで人種差別の愚かさを訴える。オランダ移民の理論的指導者の娘と恋をした彼は、父親に猛反対されても気持ちを貫く。しかし、彼の力も大きな偏見の壁には勝てず、立ち去ることになってしまうのだった。
 この映画では音楽や恋愛も描いているが、何といっても話の中心にあるのは差別問題だ。“いじめ”の対象であったことから逃げ出すために覚えたボクシング、それを通じて出会ったモーガン・フリーマンとのふれあいで、自分たち白人と、彼ら黒人との間に生まれながらにしてある隔たりを、主人公PKは身を持って感じてしまう。彼を救世主として崇める黒人たちと、普通の少年でいたい自分との間で揺れながら、成長してゆくPKの姿は実に美しく痛ましい。
 『ロッキー』を作ったジョン・G・アビルドセンだから、ボクシングのシーンは自然に溶け込めた。しかし、ボクシングで英雄になった人間の夢を描ききれず、そこから波及する社会的なドラマを描こうとすることには、少々無理があったようだ。結局、結果として何も生むことなく逃げなければならなくなってしまっては、英雄観もしぼんでしまう。“パワー・オブ・ワン”……“人ひとりの力”なんてたかが知れてる―ということをまざまざと観る側に感じさせてしまっては、この映画の意味はなくなってしまうような気がする。
 かつて、ボクは「日本の差別なんて、外国の人種差別に較べれば大したことはない」と思っていたことがった。同和問題や性差別など日本にもいろいろな差別があるけれど、映画や小説や事件で知る限り、諸外国の黒人差別の問題の大きさには到底足許にも及ばないと思う。いや、日本のそういった問題をないがしろにするつもりはないし、真剣に考えなくてはいけない問題だと思う。しかし、地球規模で問題を考えるときにはやはり切実さが違う。別に人種差別の何をどこまで自分が知っているかといえばほとんどわかっていないだろうけど。『パワー・オブ・ワン』ではモーガン・フリーマンがうんこを食べさせられる。こんなことが果たして日本で起こるだろうか? 結婚に不利だとか、就職に影響するとか、そんなレベルじゃあないでしょう。食えます? うんこですよ、うんこ。
 一時期のスパイク・リーのように自分の映画に必ずその辺の問題提起を掲げる監督もいたが、直接的に真っ向から取り組んだ映画は実に多い。いまだにこんなに多く作られるのはまだまだ認識不足なんだと思うモーガン・フリーマンやデンゼル・ワシントンが出てくる映画に黒人の不利益が出てこない映画が果たしてあっただろうか。こういう映画は、思想とか価値感とか偏見とか絡んでくるから、描くことが非常に難しい。娯楽として映画を捉えている人々に、押しつけでなくどこまで入り込めるかは娯楽映画の何十倍もの手腕を必要とするだろうと思う。
 すこし影を潜めたが、日本にも“いじめ”の問題がはびこっていた。この映画では、主人公がこうなったもともとの原因は“いじめ”にある。彼はいじめられる側にあったから、差別される側の痛みがわかるのだろう、と受け手に思わせるがための、ストーリー設定だと思う。たまたま同和問題とか知った時期にこの映画を見たので、一応ボクの胸は痛んだ。所詮、他人ごと的同情の範疇を超えはしないだろうが、自分にあてはめたりもした。かつて、自分が“いじめ”に遭う要素はなかったわけではないのになぜ自分は“いじめ”に遭わなかったのだろう。自分では“いじめ”の対象にさせない雰囲気を放っていたとは思えない。小中学生時代ひ弱で不健康だったボクは、ある意味では絶好の“いじめ”の対象だったはずだ。周りがやさしかったのだろうか。教師の指導が優れていたのだろうか。そうでもないような気がする。確かに極悪非道なクラスメイトはいなかったのかもしれないが、不良と呼ばれる連中はいた。ただ、彼らはボクにかかわろうとすらしていなかったから、対象にもならなかったのかもしれない。友人の少ない、独りでいることの多かったボクは、多分いじめる側の一人にもならなかったとは思う。おそらく、グループの中での小さな諍いや争いが、犠牲者を必要とするときに、そのグループの中からたまたま適した人間がいじめられる側に回るのだろう。昔の集団リンチとかよりも、“いじめ”の方がたちが悪い気がする。“大勢の中の一人”という感覚がいちばんいけないのだ、と思う。人種差別だって“いじめ”と一緒だ。将来、もし、子どもを持つようなことがあったら、もっと真剣に考えるのだろうな。でも、今のうちは、ちゃんといろんなことに一応の揺るがない自分の意見を持っておこう。いざ自分が問題の輪の中に入ることが絶対ないとは言い切れない。たとえ、そのときいろいろな感情やしがらみに負けようとも、一応かつて考えたことがあった事実だけは胸中に残ると思う。勝つ、ということは大変なことなのだと、身に沁むかもしれない。我々なんて、ちっとも強くなんかないのだから、パニックに陥ったらわがままなもんだ。でも、こうしてときどき映画に自分の甘さを律してもらって、少しぐらい人生に反映させたいよな。

◎作品データ◎

『パワー・オブ・ワン』
原題:The Power of One
1992年アメリカ映画/上映時間:2時間7分/ワーナーブラザーズ映画配給
監督:ジョン・G・アビルドセン/製作総指揮:スティーブン・ルーサー, グラハム・バーク, グレッグ・コート/製作:アーノン・ミルチャン/原作:ブライス・コートネイ/脚本:ロバート・マーク・ケイメン/音楽:ハンス・ジマー/撮影:ディーン・セムラー
出演:スティーブン・ドーフ, モーガン・フリーマン, ジョン・ギールグッド, ガイ・ウィッチャー, アーミン・ミュラー・スタール
 
recommend★★★★★☆☆☆☆☆
favorite     ★★★★★☆☆☆☆☆

la finestra di fronte 2
 ジョバンナとフィリッポは、ローマでふたりの子供と住んでいるごく普通の夫婦。フィリッポは夜働き、ジョバンナは鳥工場で経理の仕事をしているすれ違いの生活。ある夜、ディナーの後のテベレ川の橋の上で、記憶喪失で迷子になった老人と出会う。老人を警察で保護してもらおうとしながら家に連れて帰って来てしまう夫に怒りを覚えたジョバンナだったが、やがて、老人と心を通わせ始める。老人はシモーネと名乗った。一方、ジョバンナには向かいの窓に見えるハンサムな男に興味を抱き始めていたという一面もあった。趣味で作っているケーキを店に持ち込むジョバンナンに、その男は声をかける。相手も興味を抱いていたのだ。名前はロレンツォ。稼ぎが悪く、老人を連れ込んでおいて放っておく夫に嫌気がさしていた彼女は禁断の恋と知りつつ、ふたりは老人の捜索をきっかけに急速に近づいていった。そんなある日、老人が菓子職人だったことを知るジョバンナ。彼女はかつて抱いていたケーキ屋への夢を蘇らせていた。そして、実はシモーネと言う名は老人の名ではなかったことを知る。それは、かつてナチスの強制収容所で菓子職人をしていた時の禁断の恋の相手の名前だった。やがて、ロレンツォは支店長に昇格し、ローマを去らなければいけないことに。ジョバンナは、ロレンツォとベッドを共にすることを決意する。
 実は日本未公開作品である。つまり、スクリーンでは観てないわけだ。日本では、2004年度のイタリア映画祭でのみ上映されている。イタリアのアカデミー賞と言われるダヴィッド・デ・ドナッテロ賞をはじめ、シアトル国際映画祭グランプリ、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭グランプリなど数々の賞を受賞している。
 まず、冒頭のクレジットに「マッシモ・ジロッティに捧ぐ」とあるように、この映画で重要なキーマンとして登場する老人マッシモ・ジロッティの遺作となってしまった。追悼。何とも味のある燻し銀的演技である。彼は1942年のルキノ・ヴィスコンティ監督『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で主演を演じている。これが格好いい。彼はイタリア映画に燦然たる足跡を遺したと言える。長い俳優歴の終点として、意味のある作品だったのではないだろうか。
 さて、本題。映画だが、この映画はふたつの揺れ動く軸の中で主人公ジョヴァンナの感情が表現される。老人の登場は問題提起として重要ではあるが話のバックボーンに過ぎない。よって、ナチスの強制収容であるとか、同性愛とかそういうことも、話に膨らみを持たせているだけであまり関係ない(とボクは思う)。ただ、中で出てくる老人の持っていたラブレターはジョバンナの恋に少なからず影響を与えていると思う。美しい文面だ。ナチスの強制収容所での同性愛というこれ以上ないとも言えない絶対成就されない状況の中での恋心について「よい世の中になったと僕にはどうしても言えない……君がいないのだから」という表現。これには泣けた。そしてこの老人の記憶を辿る謎解きが、この映画を陳腐な恋愛ものにさせなかった要因であると思う。
 この映画の醍醐味は恋と夢である。禁断の恋と生活のため諦めていた夢だ。彼女はぎすぎすした性格のなかからかつての躍動感をこの恋と夢で取り戻すののである。結果、彼女は恋に関しては現在の生活を選び、夢に関しては仕事を辞めて達成に踏み出してゆく。前者は無難で後者は冒険だ。
 たまたま日常に嫌気がさし、煙草を咥えてふと見た向かいの窓。これは、どこにでもある光景、共感は得やすい風景だ。日常の些細な苛立ちとはそういうものだ。いつしか、それが寝る前の習慣になっていく。覗き…これは犯罪。そして、相手にも覗かれていた主人公はなぜ逆上しない? それは彼が魅力的だからだ。
 まあ、そんなことはどうでもいい。彼女の夢であったケーキ屋。老人との交流の中でのケーキ作りのシーンは、感動する。そしてそれが後半のケーキの山のシーンへと感激を導いていく。そう、『ニューシネマ・パラダイス』でキスシーンの連続を観ているときのような感激。
 実にわかりやすく揺れ動く心境はきっと誰の心にも泌み入っていくことと思う。上質な映像とともに。そしてラスト、クレジットロールへ突入してゆくジョバンナの瞳の愁いに誰もが魅了されることと思う。右眼に少し涙を湛えたような何秒ものカメラ目線。美しい。単純ともいえるストーリーながら、非常に上質な質感を湛えた映像やダイアログは、きっと誰もの心に深く染み入るだろう。

◎作品データ◎

『向かいの窓』
原題:La Finestra di Fronte(英タイトル:Facing Window)
2003年イタリア・イギリス・トルコ・ポルトガル合作映画/上映時間:1時間46分/未公開映画
監督:フェルザン・オズペテク/製作:ジャンニ・ラモリ, ティルデ・コルシ/脚本:フェルザン・オルベテク, ジャンニ・ラモリ/音楽:アンドレア・グエラ/撮影:ジャンフィリッポ・コルティチェッリ
出演:ジョバンナ・メッツォジェルノ, マッシモ・ジロッティ, ラウル・ボヴァ, フィリッポ・ニグロ, マッシオ・パッジオ
 
recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆
transamerica 

 若い頃から男性であることに違和感を抱き、女性として独りLAで慎ましい生活を送るブリー。肉体的にも女性になるため最後の手術を控えていた。その矢先彼女の前に、突然トピーという少年が出現。スタンリーという名の父親を捜しているという。彼はブリーが男性だったころにたった一度の経験で出来た息子であることが判明する。しぶしぶ自分の手術費用を使ってニューヨークへ向かうブリー。ブリーは、自分の正体を明かさないまま、トビーを継父の暮らすケンタッキーへ送り届けようとする。
 女性の心を持ちながら、体は男性として生まれてしまった性同一性障害の主人公の葛藤をモチーフにしたハートフルなロードムービー。愛を忘れてしまった親、愛を知らない息子の複雑な関係を、新進気鋭の監督ダンカン・タッカーが、初監督作品とは思えない手腕で描き出す。出会う予定ではなかったはずの、お互いに痛み多き人生を歩んできた2人が、この特別な旅を通じて成長してゆく様子を、ユーモラスであり、そして切なく描いている。
 まずは父親から。ドラマ「デスパレートな妻たち」の女優フェリシティ・ハフマンが、性同一性障害の中年男に扮し、夢と親心の間で揺れるヒロインを好演している。女性に変わる直前の男性、という難役を、絶妙なぎこちなさと圧倒的なリアリティで演じきり、アカデミー主演女優賞にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞主演女優賞を獲得するなど高い評価を受けた。ときどき出てしまう男の癖などを微妙に演じているところに凄さがある。この人物像を作り上げた彼女も凄いが、それを引き出したダンカン・タッカーの演出と脚本も凄いのだと思う。
 そして息子、本当の父親の姿を知らないまま、ドラッグや売春に手を染める息子のトビー。彼も、難しい心理描写をさわやかに演じている。彼あってフェリシティ・ハフマンの演技は生きていると言える。父親を肉体関係へ誘う様子は実にうまく演じている。
 タイトルの『トランスアメリカ』は「アメリカ大陸横断」の意味で、第三の性を表す「トランスジェンダー」に掛けたものだ。保険会社にも「トランスアメリカ」という名の会社があったりしてウェブサイトで名前が交錯して問題が起きたりしたというエピソードがある。また、ボードゲームにも「トランスアメリカ」というのがあり、自分が指定されたアメリカ大陸の五都市を線路で繋げることを目指すゲームなのだが、父親・母親・息子そしてそれぞれの過去とを結び付ける線を捜すゲームの意味合いも含ませているとは読み過ぎか。ドリー・パートンがこの映画のために書き下ろした「Travelin’ Thru」も歌曲賞でオスカーにノミネートされた。受賞こそ逃したがこれがまたいい。
 人間ドラマとも言えるしロードムービーともとれるこの映画は、まず自分が父と名乗れないことから親切な教会の女の人を装い、トビーの父親探しの旅に付き合うことにするところから最初の軋みが始まる。幼い頃に父に捨てられた息子が、その父と知らず奇妙な女と旅をするわけだ。2人の再会にはじまるが、彼にとっては初対面だ。道中全ての出来事が、ある一定の緊張と距離を保ちながら進んで行く。これが妙なおかしさを醸し出している。ブリーは息子に懺悔の気持ちと、真実を語れない後ろめたさを感じている。トビーは、それを愛と勘違いし、愛を告白してしまう。だがそのおかしさは胸の詰まる思いのするおかしさだ。少しずつ近づいていく2人に、突然また軋みが訪れる。トビーがブリーは男であると知ってしまうのだ。性同一性障害本人が抱える苦悩、その家族の想いやり、胸に残る感慨は深い。ブリーは、手術費を稼ぐためにいやな仕事を齷齪掛け持ちした。友人の人もいない彼女は、そのひとの目に触れない仕事で、見えない存在となり、完全に女性になったら、過去を捨てて人生をゼロからやり直そうと考えていた。彼女の母親とのやりとりからは、ブリーが現在のような運命をたどった理由の一端が垣間見られる。かつて息子を自分の思いのままにしようとした母親は、今度は孫に同じ思いをさせようとする。そして、実家から飛び出してストリートキッズとなったトビーは、いたたまれずに実家から飛び出したブリーを理解する。おそらく監督は性同一性障害を抱えてしまった不幸な人間ではなく、ひとから理解されない人間の不安や孤独を描きたかったのではないだろうか。これだけではなく背景には、実際の母親はこっそりトビーを産んで夫のDVに遭っている。夫はトビーを手籠にする。そしてトビーもゲイとなる。警察沙汰も起こす。背景は多すぎる。監督の主人公や息子に対する細やかな描写とは裏腹に、詰め込まれ過ぎた背景がすべて重すぎて綿密に描き切れていないのが残念だ。でも、多分、それは複雑であればあるほど主人公は混乱し、逃げようとする人格を形成してしまったり、嘘を貫き通そうとしたり、その結果、完全な父親にはなれず、かといって母親にもなれず、もっといえば完全な女性にもなりきれず、完全な人間にもなりきれなかったのではないだろうか。自分のなぜかこんな風になってしまった運命がはっきりしていれば、もう少しましな人生が送れた気がする。だから、その辺は単なる背景として見ればよいのだ、きっと。詳しく描く必要のない、でも要因として含みたかった過去のエピソードなんだろう。とはいえ、残念ながらその辺の雑さは軽薄とはいかないまでも、軽い映画になってしまったのは事実だ。重い映画である必要はないし、これでいいのだろう。しかし、もっと苦悩を伝えるのなら話は別だ。その辺が難しい。もっと痛みを直接に感じる切なさを持っていてもよかった気はする。煮え切らない中途半端さが残る。
 しかし、最後には手術をして強い女性になりそうな片鱗を窺わせて終わるから、この映画はそれでいい。そう、思う。

◎作品データ◎

『トランスアメリカ』
原題:Transamerica
2005年アメリカ映画/上映時間:1時間43分/松竹配給
監督・脚本:ダンカン・タッカー/製作総指揮:ウィリアム・H・メイシー/製作:レネ・バスティアン, セバスチャン・ダンカン, リンダ・モラン/音楽:デビッド・マンスフィールド/撮影:スティーブン・カツミアスキー
出演:フェリシティ・ハフマン, ケヴィン・セガーズ, フィオヌラ・フラナガン, エリザベス・ペーニャ, グレアム・グリーン
 
recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆
billy elliot

 1984年のイギリス北東部の炭鉱の町ダーラムでは、炭鉱夫たちのストライキが行われていた。11歳の少年ビリーの父と兄もストに参加していた。ビリーの母親が亡くなってから混沌としている家庭は、祖母の認知症、ストライキの激化により閉塞感が増していた。暗く閉ざされた世界の中で、ビリーは父親から強要されていたボクシングの練習中にバレエのレッスンを目撃する。次第に彼は自己表現の手段としてバレエに魅了されていった。しかし、炭鉱労働者で「男は強くあるべきだ」という固定観念に縛られた父親はバレエは女のやることだと、ビリーに理解を示すことができない。それでもビリーは自分を解き放つかのように踊り続け、バレエ・ダンサーになる日を夢見るようになる。バレエの先生は名門ロイヤル・バレエ団へのオーディションを薦めた。ストライキで収入源のないエリオット家では通わせる金さえままならない。しかし、ビリーのダンスを見せつけられた父は、その真剣さに胸を打たれ、才能の伸ばしてやろうとするのだった。そして、破天荒なダンスでオーディションをぶち壊したビリーは、それでも、面接でダンスに対する想いを語り、見事入学するのだった。数年後舞台に立った彼を父と兄と当時の親友が観に来ていた。家族が来ていることを知ったビリーは、舞台で華麗なジャンプを見せるのだった。
 監督は英国演劇界の名演出家だったスティーブン・ダルドリー。これが長編映画初監督作品で、いきなり米アカデミー監督賞にノミネートされた。バレエの先生を演じたジュリー・ウォルターズもノミネートされた。ゴールデングローブ賞でも受賞こそなかったが高い評価を得ている。イギリスでは英国アカデミー賞と言われるBAFTAで作品賞、主演男優賞(ジェイミー・ベル)、主演女優賞(ジュリー・ウォルターズ)を獲得している。ほかにエジンバラ映画祭では観客賞を受賞した。つまりそのくらい観客が観て共感する映画ということだ。ラスト大人になったビリーの舞台をアダム・クーパーが特別出演で演じているところも見逃せない。ビリーを演じるジェイミー・ベルも見逃せない。2000人以上のオーディションの末に発掘された13歳の少年。6歳からダンスを習ってきた彼の素晴らしい踊りと演技は、2000年カンヌ映画祭で大きな感動を巻き起こし、マスコミからも絶賛を浴びた。この頃アメリカのアカデミー賞では必ずと言っていいほどイギリス映画がノミネートされ、英国人俳優がノミネートされた。イギリスの映画に活気があった時代だ。アメリカ映画だったらアメリカンドリームのスポ根ものになってしまいそうなテーマを、この時代のイギリスが描くとこうもさわやかな青春ものになるのだ。この作品は、ある少年の葛藤を描いた単純明快な物語でありながら、親しみやすく力強く悲しみと喜びに充ち溢れていて、観ればたちまち、魅了される。だが、実のところ、あまり浸透していないように思う。映画ファンは良く知っているだろうが、多分、たくさんの人がこの映画の存在を知らないだろう。こんなに評価を受けているのに。
 ボクも完全に魅了されたうちのひとりでこの作品をベスト10にも入れたいのだが、まあ、粗削りな面は数々ある。いくらバレエを練習したからと言って、バレエを教えてもらった生徒があんなにタップをこなせるのは妙だし、トップダンサーになるタイプの少年のダンスではないからだ。もっと熱さと勢いに溢れた庶民的なダンスだ。入学したと思ったらいきなり大人になってしまい、ジェイミー・ベルがアダム・クーパーになっていては真実味がない。ただ、そんなことは全くどうでもよいのだ。そこで、何点か触れておきたい点がある。
 まず、田舎の貧困世帯の子供がバレエに魅了されるが、炭鉱夫の父や兄がバレエは女のやるもんだ、という偏見を持っている点。夢は大きければ大きいほど、多くの壁にぶち当たる。職業、貧困、理解、偏見…今となってはものすごい偏りだが、「男はフットボールかボクシングかレスリングをやれ」という父。この父が、息子のダンスを目の当たりにして息子の熱い想いを感じ取るわけである。このとき、息子は親友が女装趣味のある「オカマ」(ここではそういうセリフを使っているのであえてこの言葉を選ぶ)だと知り、体育館でチュチュを着させてあげるのだ(ボクは実はここのシーンがいちばん美しいと思っている)。だが、それを父親が見てしまうわけだから、息子は「オカマなんだ」と思ったのに違いない。そこで、諦めたのかと思うと、ダンスを見て才能だと圧倒されて伸ばしてやりたいと思う。つまり諦めて夢を負わせるのではなく理解をするのだ。ビリーは「バレエをするからオカマなのではない」と親友に語るシーンがある。ビリーはオカマでないといい、親友はバレエをしないのにチュチュを着たがる。こういう対比をさせておいて、こんな父だから「オカマだからバレエをするのだ」という気持ちと「才能を伸ばしてやりたい」と思う気持ちが混在しているように描いている(と思う)。それでも、息子のためにお金が要るのでストをやめて炭鉱に行こうとする父にストの首謀者であるビリーの兄は愕然とする。家族のビリーを思うがために辛い選択を迫られるシーンは時代背景を物語っているし、辛辣である。大人たちにとって決して甘くない現実に直面している大人たちと、夢を見ずにはいられない少年のコントラストが、きれいごとではすまされない厳しさを表現している。この辺は問題がジェンダーと夢と労働層の問題がそれぞれの感情に絡み合っていて複雑でだれに共感していいかわからない。
 もうひとつは先生とビリーの関係。ビリーの才能を見抜き、暖かく見守る中流階級のバレー教師との心の交流はとても良い。体育館で二人でブギ・ウギを踊るシーンは名場面の一つ。このあたりは監督が舞台出身でロイヤルアート・シアターの芸術監督だったこともあり撮り方がうまい。もう練習は嫌だとトイレで悩み、出てきて先生と口論するシーン、「自分のできなった夢をボクにやらせるなんて単なる負け犬だ」と叫ぶ演技は見もの。この先生でなければ、少年はバレエに夢を抱かなかったかも知れないと思える。
 ただ、この映画は先にも触れた通り、何もかもどうでもいいほど、爽やかで美しい映画なのだ。もしかするとこの作品は、かつての夢をあきらめた者にこそ捧げられた映画なのかもしれないと思える。いや、ボクは諦めない。

◎作品データ◎

『リトル・ダンサー』
原題:Billy Elliot
2000年イギリス映画/上映時間:1時間51分/日本ヘラルド映画配給
監督:スティーブン・ダルトリー/脚本:リー・ホール/製作:グレッグ・ブレンマン,ジョン・フィン/音楽:スティーブン・ウォーベック/撮影:ブライアン・トゥファーノ
出演:ジェイミー・ベル,ジュリー・ウォルターズ,ゲアリー・ルイス,ジェイミー・ドラベン,ジーン・ヘイウッド
 
recommend★★★★★★★★★☆
favorite     ★★★★★★★★★★

No.0007 『司祭』

priest 2 
 リヴァプールの労働者区域の教会に熱意に燃える新任司祭のグレッグが就任した。主任司祭のマシューはリベラルな考えを持ち、左翼的な説教をし、しかも家政婦のマリアと愛人関係にあり、保守的なグレッグを驚かせた。しかし、グレッグには秘密があり、夜な夜な皮ジャンに着替え自転車に乗って繁華街に出かけてゲイバーで男を物色していたのだ。厳しい現実に自信を失いかけていたグレッグはゲイバーで出会ったグレアムと肉体関係を結んだ。グレッグは罪の意識に駆られるがその一方心の奥では彼を愛し始めていた。ある日、グレッグは告悔で高校生のリサから父に犯されているという事実を知ってしまう。立ちはだかるのは守秘義務。母親にも、福祉局にも事実を伝えられない。父親本人に会うがまるで意を介さない。グレッグはどうしようもない心に慰めを求めてグレアムとデートを繰り返す。しかしグレアムが彼のミサに来ると、グレッグは彼への聖餐を拒んでしまう。ある午後、リサの母がたまたま早く家に帰って夫が娘を犯しているのを目撃する。彼女はなぜ教えてくれなかったとグレッグを非難する。絶望したグレッグはグレアムに会い、二人は車の中で愛を確かめ合う。これがもとでグレッグの同性愛が露呈し、裁判沙汰になってしまう。彼は自殺未遂の末に僻地の教会に転任させられた。その間もマシューは偏見に負けてはならないと説き伏せる。始めはマシューとの意見の食い違いに反発を感じていたグレッグだが、真摯な誠意に、マシューと一緒に祭壇に立つことを決意する。日曜日のミサ、一部の信者は怒って席を立ち、残った信者も聖体拝受をグレッグから受けようとする者はいなかった。ただ独りリサを除いては。グレッグは彼女を抱きしめ、許しを求めて涙を流すのだった。
 今でこそ、許容の枠の広がった同性愛だが、この当時はまだ、政治的にも争点になっていた。しかも、司祭という職業と同性愛という性嗜好はあまりにも相容れない。欧米各国の政治的見解と、教会の権威、信仰層の保守化から、公開された各国から烈しい議論が巻き起こり、ローマ法王から抗議声明文が発表された。これがアメリカ公開にも影響を受け、さらに日本上陸には時間がかかり1994年製作にも拘わらず、日本公開は1997年となった。いまでこそ、こんなことでこんな問題にはならないだろう。しかし、「映画靖国問題」を彷彿とさせる。。
 実は、この映画を観たとき、ゲイバーに通ってはだめだ、自業自得だと思った。もっと隠れたやり方があったはずだ。しかし、この苦悩と不条理感は痛いほど伝わる。ボクは無新論者だが、たとえば、今の職場でカミングアウトすることはタブーである。宗教的な罪の意識に関しては共感に困難を憶える。だがちょっとオープンにしすぎなボクには批難しきれない部分がある。そしてこういうことが絶対起こらないとは限らない。他にゲイを描いた映画はたくさんある。ゲイは病気じゃないか、ゲイは秘密にしなければならない、そういう視点で描かれるが、ここでは司祭であるがゆえに自分の本能的な肉欲を罪の意識として捉えるところにほかの映画と違う切なさがある。罪深さがある。
 ただ、リサを助けられなった情けなさと熱意だけでは通らない不条理さは、設定が違えばだれでもあることだ。なぜ同じ人間を愛して悪い?司祭だから? 最後、リサを抱きしめて嗚咽して涙するシーンは実に痛ましい。ボクには彼を責められない。違うやり方があったにせよ、彼の苦しみはあまりにリアルだ。人を助ける、これは簡単なようですごく難しいことだ。結果、最後のミサを終えたグレッグはどうなったかわからない。リサを泣きながら抱きしめるシーンが遠景になって終わる。少しだけ救われた、そういう気持ちを残して終わる。リサを助けられなかったのはゲイだからではない。司祭だからだ。守秘義務のせいだ。しかし、彼が信頼を失い、説得力を失くしたのは、ゲイが露呈して、信者からある意味司祭としての資格を剥奪されたかのようなバッシングを受けたからである。それはさらにリサを救えない原因に拍車をかけたことになる。
 べルリン国際映画祭で批評家国際連盟賞を受賞している。この後アントニア・バード監督は『マッド・ラブ』という精神に異常をきたし時に発作を起こす少女を愛す恋愛映画を撮っている。これもかなりシリアスだ。好きな作品である。しかし、この『司祭』の辛辣さには少し敵わない。残念ながらデビュー作のこの作品が最高作品となってしまったようだ。

◎作品データ◎

『司祭』
原題:Priest
1994年イギリス映画/上映時間:1時間45分/セテラ・インターナショナル配給
監督:アントニア・バード/脚本:ジミー・マクガバー/製作総指揮:マーク・シヴァス/製作:ジョージ・フェイバー,ジョセフィーヌ・ワード/音楽:アンディ・ロバーツ/撮影:フレッド・タンメス
出演:ライナス・ローチ,ロバート・カーライル,トム・ウィルキンソン,キャシー・タイソン,レスリー・シャープ
 
recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆
good will hunting

 南ボストンに住む20歳の青年ウィル・ハンティングは、かつて警察沙汰を起こし、現在は仮釈放職業プログラムのひとつとしてマサチューセッツ工科大学の用務員をしていた。仕事が終われば親友とバーに繰り出す日々、それに満足をしていたが、心のどこかで物足りなさを感じていた。ひとの10倍の速さで本を読み難解な定義を解いてみせる天才的な頭脳を持っていたからである。喧嘩騒ぎを起こして裁判所に拘留されていた彼は、数学教授のランボーから面会を受けた。自由の身を保障してくれるというのだ。条件はふたつ。「ランボーの研究室で勉強をすること」と「セラピーを受けること」。セラピーは嫌だと思っていた彼も、自由への欲望には勝てず、譲歩し条件を呑むことにする。ことごとくセラピストを撃退したウィルの心を惹き始めたのはコミュニティカレッジ講師のショーンだった。ショーンは最愛の妻を亡くし気力を失っていた。気力を失ったセラピストのショーンと才能を無駄にする勝気な青年ウィル、互いが反感を持ちながらも次第に心を開き合いはじめて行った。そしてやがて、お互いの少年時代の虐待を受けた過去を知り、ショーンの腕の中で心のわだかまりを涙で流すウィル。自分を見つめ直すことの怖さを恐れなくなったウィルは、過去を忘れ未来に生きようとする。自分にとって心の友がショーンであり、自分の進むべき道に気付くのだった。
  『ドラッグストア・カウボーイ』『マイ・プライベート・アイダホ』と小さめの秀作を取り続け、監督のファンになった途端『誘う女』『カウガール・ブルース』といまいちな作品が続いてげんなりしていた。ところが直後、今のところ彼のベスト1とも言えるこの作品を作り上げたことは実に嬉しいことだった。脚本が彼自身のものじゃないところに新しいテイストが生まれたのかもしれない。その脚本を書いたのがウィルを演じたマット・デイモンとその親友を演じたベン・アフレック。この脚本でオスカーを受賞する。もっと書けばいいのにふたりとも以降映画での脚本にはボクは出会っていない。また、ベン・アフレックよりも先に男優としてオスカーノミネーションを果たした弟のケイシー・アフレックが『ジェシー・ジェームズの暗殺』でブラッド・ピットを喰う名演を魅せる片鱗も見せないほどつまらない役でこの映画に出ているのも、今観るととても興味深い。そして何と言っても、ショーンに扮するロビン・ウィリアムズがコメディではない、とても心理描写豊かなこの作品でアカデミー賞助演男優賞を獲得したのは嬉しいことだ。
  ここには、いくつかの関係が登場する。まずいちばんの軸になるウィルとウィルがはじめて心を開くショーンとの、同じ傷を持つセラピーを通じた関係。カウセリングを毎週受けているボクには実に羨ましい関係だ。ふたつめは遊び仲間のウィルとチャッキーの関係。天才であるウィルに劣等感を抱くことなく違う世界を指南してやるチャッキーの感動的なセリフがある。「おれはこう思っている。いちばんのスリルは車を降りてお前ん家の玄関に行く10秒前。ノックしてもお前は出てこない。何の挨拶もなくお前は消えている。そうなればいい」こんな関係は、多分現実的には存在しないだろう。もし周りに大切なそういう存在がいたらいなくなることを望むだろうか。おそらくしない。ただ、この出来の悪い親友のように本当に無償の愛を知っていたらこう言える。今ならそう思える。みっつめはウィルとウィルの彼女となるハーバード大学の女子大生との関係。秀才にも拘わらず見た目悪ガキのウィルの本質を見抜き、惚れてしまう心の広い才女は、それでも彼の過去の傷に触れてしまい一旦は別れることになる。しかし、ウィルはショーンの亡き妻を今も愛する気持ちを理解してショーンに心を開くと同時に、彼女を自分の未来に託すことにする。この恋愛関係はあまり他の映画で観たことがない。実に爽やかな恋愛だ。そして、あともうひとつ、ウィルを見出したランボー教授とショーンの元ルームメイトという関係。ふたりは過去でもぎくしゃくしているが、現在もそれを引きずりウィルの将来をそれぞれの篤い想いで衝突し、最後には考え方が違うことを痛感しながらも認め合ってゆく。すべての関係が、ウィルの心を開き成長してゆく姿に翻弄されながらも、最後には纏まってゆく。
  過去のトラウマ、それを払拭することで、関係が出来、未来が拓ける、これは、まったく別世界のようでいて、実は天才でもだれでも抱く傷や恐怖や迷いと、それに向き合い未来を見出す自我の確立の映画なのだ。タイトルの『グッド・ウィル・ハンティング』とは良き人物となったウィル・ハンティングのことであり、良いことは追い求めることだというふたつの意味を兼ねているのではないだろうか。

◎作品データ◎

『グッド・ウィル・ハンティング~旅立ち』
原題:Good will Hunting
1997年アメリカ映画/上映時間:2時間7分/松竹富士配給
監督:ガス・ヴァン・サント/製作総指揮:ボブ・ワインスタイン, ハーヴェイ・ワインスタイン, ジョナサン・ゴードン, スー・アームストロング/製作:ローレンス・ベンダー/脚本:ベン・アフレック, マット・デイモン/音楽:ダニー・エルフマン/撮影:ジャン・イブ・エスコフィエ
出演:ロビン・ウィリアムス,マット・デイモン,ベン・アフレック,ステラン・スカルスゲールド,ミニー・ドライバー
 
recommend★★★★★★★★★★
favorite     ★★★★★★★★★☆