Archive for 4月, 2008


 the shawshank redemption

 1947年、銀行の若き副頭取アンディは妻殺しの容疑で、ショーシャンク刑務所に投獄される。誰とも話さなかった彼は、1ケ月後調達係のレッドと打ち解ける。彼の頭脳を使った取引で数々の刑務所内の問題を解決し、仲間たちに一目置かれるようになる。やがて所長に図書係を任命された彼は、実は資金運用や税金対策のために働いた。1963年所長は地元の土地業者からわいろを受け取り、アンディに洗濯させていた。1965年コソ泥で新入りのトミーが真犯人を知っているという。アンディは20年目にして無罪証明に躍起になるが、所長は彼を相手にしない。彼が釈放されると所長の不正が明らかになるのを恐れたのだ。アンディは懲罰房に入れられ、その間に頼みのトミーは殺されてしまう。アンディは27年かかって壁に穴を掘り、嵐の晩に脱獄に成功する。そして所内の不正を暴露するのだった。

 

 スティーブン・キングのノンホラー小説「刑務所のリタ・ヘイワース」の映画化。1995年度キネマ旬報のベスト1に選出されている。なんとフランク・ダラボン監督初作品というから恐れ入る。しかもアカデミー賞にノミネートもされた。残念なのはこれを超える作品を作っていないことだ。『グリーンマイル』という名作もあるが、ボクはやはりこの映画には敵わないと思う。原題をそのまま訳すと「ショーシャンクの贖い」となる。「購い」彼には贖うことなど何もなかったはずだ。これは刑務所の中の人間の贖いか、それとも刑務所自体の贖いか。ティム・ロビンスはこれまでの最高演技を見せていると思う。それに、失礼かもしれないがモーガン・フリーマンは優しい囚人が実によく似合う。味がある。ドラマの展開はテンポよく、しかも奇抜で、脱獄に関する小道具や伏線がとても巧妙だ。なるほどそうだったのか、と唸らせる個所が随所に見られる。普通、映画では脱獄に失敗する映画が多いのだが、まんまと成功するところにこの映画の痛快さがある。してやったりと、共感してしまうのだ。アメリカ映画も懐が深いというか、こういう映画を興行出来てしまうところがすごい。『靖国』が満足に上映できない日本とは大違いだ(靖国参拝を肯定しているわけではないので。肯定も否定もこの場では意見を控える。ただ、映画は上映されて然るべきだと思う。見てからの議論だ)。かつて刑務所を舞台にした傑作映画が何本かあったが、この映画は、一種独特の柔らかさも持ち合わせていて、堅苦しいばかりでない、後味のいい映画に仕上がっている。希望を決して棄てないこと、アンディに自由をもたらしたストーリー展開は衝撃だった。奇跡を起こしたアンディの雨の中で天を仰ぐシーンは特に秀逸、酔わされる。

 映画の中でティム・ロビンス演じるアンディが言うセリフがある。「希望は良いものだよ。多分一番のものだ。良いものは決してなくならないんだ」「頑張って生きるかそれとも、頑張って死ぬか」と。個人的なことだが、鬱のボクにはこれは力になる言葉だと思う。ボクは頑張って鬱を治すのか、頑張らないで鬱を治すのか。頑張らないことが必要な鬱。頑張らないことを頑張らなければ治らない。

 またこんなセリフもあった。「面白いことに、外の世界では僕は正直で真っ直ぐな人間だった。刑務所の中に入ってやっと悪党になれた」皮肉な言いようだ。ボクは思う、元気で忙しくて11秒を惜しんでいたころ、自由な時間が欲しくて仕方がなかった。ところが鬱になって初めて自分はあらゆることにサボれないことを知った。きっと治ってもサボれない。性分だ。人から見ればサボってるかも知れない、手を抜いて見えるかも知れない。でも、サボれないのだ。自分の心に「まあ、いいや」が存在しない。「とことん」「一生懸命」「必死」ばかりが心の隙間を蠢くように占めている。

エンディング近く、モーガン・フリーマン演じるレッドが言った。「国境を越えられたらいいが。友達に会えたらいいが。そして、握手できたらいいが。太平洋が夢で見たように青ければいいが。それが私の望みだ」スティーブン・キングの言い回しは言い得て妙だ。希望というものをいつまでも持ち続け、夢を果たす。絶望の向こう側に夢が待ち受けていることもあるのだ。絶望を乗り越えさえすれば。アンディもレッドも諦めなかった。ボクも諦めないでいよう。今は病気を治すこと、これは夢じゃないかな。いつか諦めてないことを叶えよう。

 
 ◎作品データ◎
『ショーシャンクの空に』
原題:The Shawshank Redemption
1994年アメリカ映画/上映時間:2時間23分/松竹富士配給
監督・脚本:フランク・ダラボン/原作:スティーブン・キング/製作総指揮:デビッド・レスター/製作:ニキ・マーヴィン/音楽:トーマス・ニューマン/撮影:ロジャー・ディーキンズ
出演:ティム・ロビンス,モーガン・フリーマン,ウィリアム・サドラー,クランシー・ブラウン,ボブ・ガントン
 
recommend★★★★★★★★★★
favorite   ★★★★★★★★★★

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my own private idaho

 ナルコレプシー―緊張すると睡眠発作を起こし意識がなくなる―この持病を持つマイクはポートランドの街角に立ち、体を売っては日々暮らしていたストリートキッズ。そんなマイクにはポートランド市長の父を持つ親友のスコットがいた。彼も男娼をしていた。ある日マイクは、スコットに愛を打ち明ける。それを受け入れきれないで理解しようとするスコットはマイクを捨てた母をマイクと一緒に捜す決心をする。兄リチャードが暮らす故郷アイダホ、その道路はマイクにとってとっておきの風景だった。会えば喧嘩をする兄から手掛かりを得、スネーク・リバー、イタリアへと旅をする2人。しかしマイクは、イタリアで、スコットとは進む道が違うことを思い知らされる。イタリアで恋に落ちたスコットは、父親が病魔に冒されていることを知り、21歳の誕生日を境に生まれかわることを秘かに自分自身に誓い彼女をフィアンセとする。一方、マイクは母がアメリカヘ帰るといったまま消息を断ったという知らせを聞き、悲しみにくれる。マイクは淋しく独りでポートランドに帰り着き、またホモの男たちに抱かれる毎日へと戻った。キッズたちを仕切っていたボブを、高級スーツに身を包んだスコットは、冷たくつきはなした。深い絶望の中、ボブは自らの命を絶つ。彼の葬儀の日、スコットの父の葬儀も行われ、立派な儀式の隣りで、ボブへのキッズたちの心からの弔いが行われる。スコットとマイクは目と目を合わせるが、2人はもはやお互いが遠く離れてしまったことを思い知るだけだった。1人きりになったマイクは、アイダホの長い1本道でナルコレプシーの発作によって眠り続ける。1台の車が通りかかり金と荷物を奪っていく。さらに、1台の車がやってきてまだ眠っているマイクを連れて通り過ぎていった。
 
 ホモセクシャル、近親相姦という要素をバックグラウンドにし、一風変わったロード・ムービーとも言える様相を呈したこの映画をボクはゲイのブログの最初の記事に選んだ。「家族」とアイデンティティを求めて旅する姿がテーマと言える。監督のガス・ヴァン・サントは、眠りに落ちたマイクの夢に常に母親のいる風景を描き、家への回帰をポエティックに描いている。
 ゲイの男娼のマイクを演じるリバー・フェニックスはその個性を見事に発揮している。彼にしか出せない雰囲気だと思う。バイセクシャルであり結婚して全うな道に戻ることを選んだスコットを演じるキアヌ・リーブスもその劇中の変貌ぶりを演じ切っているが、やはり、リバー・フェニックスの個性あふれる演技は難しい役どころをとても自然に見せている。ホモセクシャルとバイセクシャルの微妙なずれをうまく描いていると感じる。ボクは結局はゲイの道を選んだが、女性経験がないわけではなく、これでも3度ほど結婚に辿り着きそうになったことがある。でも、自分に忠実でいることにした。性生活とか無理ですから。かといって男性と結婚する気もないけど。同居も微妙、プライバシーが保たれればするかも、という程度。
 また、他方で、マイクは兄のリチャードに向って「あんたが父親だ」と責めるシーンがある。事実は映画の中で明らかにされていないが、もし本当だとすれば兄と母との間に生まれた近親相姦の子供ということになる。心境は複雑だ。ラスト、故意にだと思うが遠景でマイクを連れ去るシーンでは誰だかわかりにくいように撮られているが、おそらくあれは兄のリチャードなのだろう。ゲイというだけでも数奇な人生なのに、これは悲惨だ。体でも売ってないとやりきれないかも知れない。彼は、普通にはなり切れずに、それを拒絶するかのように、外れた道を選んだように思える。家族に理解されるというのは難しいし、赦されても本心までは解ってもらえないものだと思う。やはり、家族と離れて恋人と暮らすか、一生独りを決め込んだ方が自然だと思う。共同生活は相容れない、そう思う。さあ、ボクはもう、家族に諦めてもらえただろうか。この映画ほど背景は悲惨ではない。ただ、ボクには介護をしなければならない運命があった。そこに鬱が絡んだ。敷かれたレールから脱線するということは、それだけ道なき道を自分で模索しながら歩かなくてはいけない。その轍は後に続く人の道になりえるのだろうか。無理だろうな。
 マイクが射精する瞬間を、家が落ちて砕ける映像を挿入することで表現しいているのは実に斬新だった。その枠の中で面白い撮り方をしているとボクは思う。実にいやらしくない。盛り上がりに欠けるようにも思うし、ボクがリバー・フェニックスのファンということで偏見が入っているが、この映画、是非みなさんの賛否を仰ぎたいものだ。
 
 ◎作品データ◎
『マイ・プライベート・アイダホ』
原題:My Own Private Idaho
1991年アメリカ映画/上映時間:1時間44分/日本ヘラルド映画配給
監督・脚本・製作総指揮:ガス・ヴァン・サント/製作:ローリー・パーカーマーキー/音楽:ビル・スタッフォード/撮影:エリック・アラン・エドワーズ,ジョン・キャンベル
出演:リバー・フェニックス,キアヌ・リーブス,ジェイムズ・ルッソ,ウィリアム・リチャート,ロドニー・ハーヴェイ
 
recommend★★★★★★☆☆☆☆
favorite   ★★★★★★★★☆☆

 
 a river runs through it
 1912年、アメリカ、モンタナ州ミズーラ。ノーマンとポールの兄弟は、父親のマクリーン牧師にフライフィッシングと勉強を教わっていた。ノーマンの夢は牧師かプロボクサーになること、ポールの夢はプロのフライフィッシャーである。19年、ノーマンは東部のダートマス大学に進学し、7年後、ノーマンがやっとミーズラに戻った時、父は歓迎の言葉のかわりに将来の進路を決めかねているノーマンを批判する。一方ポールは地元の大学を卒業し、地方新聞の記者をしている。ノーマンは、弟が酒と賭けポーカーにのめり込んでいるのを知る。兄弟は早速川に入り、釣りをする。ノーマンは、弟のほとんど芸術と化したフライフィッシングを見つめていた。ある日ノーマンは、警察に再び呼び出された。彼は家に戻ると、ポールが殺されたことを両親に報告するのだった。
  1920年代のモンタナを舞台に、フライフィッシングで結ばれた兄弟と父親の家族の絆を描く人間ドラマ。第65回アカデミー賞の撮影賞を受賞したこともあり、とても映像が綺麗だ。ブラット・ピットがフライ・フィッシングで釣り上げた「大物」を手に、父と兄を自慢げに振り返るシーンはなんとも美しい。破天荒な生き方をする弟と堅実で努力型の兄、そして父。時が流れ、それぞれの道を歩んでも、3人は常にフライフィッシングで結ばれている。いつもいちばん好きな映画はなにか訊かれるとひとつに選べないので、困るが、この映画を言うように決めている。
 ボクにはこれは釣りの映画ではなく、家族の物語だと思っている。もっと言うなら兄弟の映画だと思う。原作が実話なだけに、ボクも自分と家族の関係を重ね合わせてしまう。ポールがノーマンの彼女の兄のことを「たぶん彼は誰かに助けを求めている」という台詞が本当は自分のことを言っていると思えて胸にぐっときた。彼は危ない生き方をすることしかできないその道から救い出してほしいと本当は思っていた。釣りを通してのみ競い合いながらもすべてを曝け出し合える兄弟は、本当は愛し合っているのだ。そして、フライフィッシングではノーマンはポールに敵わないと思っている。彼が堅実でさえあれば、まっとうな生き方をしてくれさえしたら、そう思っているが、その真面目で真摯な生き方をすることで人生では勝とうとしている。いつも闘っている。でも、本当は尊敬し合い助け合いたいのである。ところが結末はポールの死により悲劇を迎えてしまい、ノーマンは終にどの場面においても勝てなかったと感じているのだと思う。でも、ポールは死に、ノーマンは生きている。家族を養っている。これでも、ポールには生涯勝てなかった。嫉妬と確執、これを超える兄弟愛を、しかしながらノーマンは感じたのだろう。ポールもきっと絆を確信しながら死んでいったと思う。本当は助けを求めていたポール、それを言えない意地っ張りなポール、死にさえしなかったら、無茶な生き方さえしなかったら...。ボクはポールであり、姉たちはノーマンかもしれない。それでもギャンブラーにはなりきれなかったボクはポールにもなれていない。ボクも何かこれといったものを掴まないうちに死んでいってしまうのだろうか。無茶な生き方だろうか。アブノーマルな感情の持ち主だろうか。わがままなやんちゃ坊主だろうか。うまくSOSさえ出せない不器用な人間だろうか。間違ったポリシーを頑固に貫き通す頭の固い人間だろうか。
 実は原作を読んでいない。読んでみたいと思う。ブラット・ピットについてはボクはこの映画での釣り上げたときの笑顔がいちばん美しく素晴らしいと思っている。役全体からいえば、『12モンキーズ』の精神に異常をきたしている役の方が名演かもしれない。でも、『テルマ&ルイーズ』でチョイ役を演ったのを見たときから、いつか出てくる役者だと思っていた。最近では製作にも手を出しているが、いずれオスカーを獲得するくらいの器は持っているだろう。もうアイドルでもないように思う。作品も選べる立場にあるから、もっとすごいはまり役をいつか掴まえてほしい。若き日のロバート・レッドフォードと言われ、だからこそ、監督が惚れた役に彼を配役したと言われている。
 淡々としすぎている映画だろうか。ボクはそうは感じない。表情や仕種のひとつひとつ、台詞の言い回しや間にとても深さを感じる。なにはともあれ、兄弟の愛、嫉妬、競争心、確執、絆、等々を深く掘り下げて観て欲しい。

◎作品データ◎

『リバー・ランズ・スルー・イット』
原題:A River Runs through It
1992年アメリカ映画/上映時間:2時間4分/東宝東和配給
監督・製作総指揮:ロバート・レッドフォード/製作総指揮:パトリック・マーキー/原作:ノーマン・マクリーン/脚本:リチャード・フリーデンバーグ/音楽:マーク・アイシャム/撮影:フィリップ・ルースロ
出演:ブラッド・ピット,クレイグ・シェーファー,トム・スケリット,ブレンダ・ブレッシン,エミリー・ロイド
 
recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★★★★
 the piano
  19世紀半ばのニュージーランド。エイダは娘フローラと1台のピアノだけを携えて、スコットランドからスチュワートのもとへ嫁ぐためにやってきた。スチュワートはピアノは重すぎると言って海辺に置き去りにし、親子だけを迎え入れた。ピアノはスチュワートの友人ペインズの土地と引き換えにされてしまう。6歳からなぜか口の利けなくなったエイダにとってピアノは彼女そのものだった。ぺインズはピアノをレッスンしてくれればピアノを返すという。レッスン1回につき黒鍵を1つ。初めはペインズを嫌っていたエイダだったが、やがて心は彼に傾き始めレッスンはピアノから情事へと変わって行く。しかし秘密のレッスンを知ったスチュアートは激怒しピアノをぶち壊し、演奏できないようにとエイダの指を切り落としてしまう。エイダは壊れたピアノを海深く沈め、娘とペインズとともに島を去った。

 ボクは「映画は何がいちばん好きか」と訊かれると『リバー・ランズ・スルー・イット』と応えることにしているが、本当はこの『ピアノ・レッスン』がいちばん好きなのかも知れない。このころサリー・ポッター、アグニエスカ・ホランドとともに新進気鋭の女流映画監督として注目を浴びていたジェーン・カンピオンは『エンジェル・アット・マイ・テーブル』という秀作を作り上げ、ついに『ピアノ・レッスン』で華開いた。カンヌ映画祭で最高賞のパルムドールと主演女優賞。アカデミー賞では脚本賞・主演女優賞・助演女優賞を獲得した。ジェーン・カンピオンは監督賞にノミネートされ、受賞こそ逃したが、初の女性監督賞受賞なるかと騒がれた。作品自体も評価をされ、受賞は自身の脚本賞にとどまるがその演出たるや骨太で官能的なものだった。その映画を盛り上げるマイケル・ナイマンの美しい音楽とスチュワート・ドワイバラの繊細な映像は筆舌に尽くしがたい。エイダが指を切り落とされるシーンは残酷だが実に美しい。海辺に傘をさしてピアノの脇に座るエイダの構図、フローラの海辺のダンスは際立って美しい。
 そして、俳優陣の豪華さとその演技も見逃せない。スチュワートを演じるサム・ニール、ペインズを演じるハーベイ・カイテルは素晴らしいが、残念ながら母娘の演技の方に圧倒される。娘フローラをアンナ・パキンが演じ、助演女優賞を11歳で受賞した。テイタム・オニールがいたために、最年少受賞に数か月及ばなかったが、これは奇跡だ。そして何と言っても『ブロードキャスト・ニュース』でのキャリアウーマンのイメージの強かったホリー・ハンターが台詞を一言も発することなく、言葉よりも饒舌に感情を表現している。表情、仕草、そしてピアノの音色、この演技でこの年の主演女優賞を総なめにしたのだ。すっぴんで皺も染みも露にし、それでも強さを秘めた美を表現する彼女の強かな演技に圧倒された。
 情事1回とピアノの黒鍵ひとつを交換するというのは言葉で聞くと陳腐だが、そこから愛へと変化してゆく過程は美しい。三角関係、夫への反発、ピアノへの同化、わがまま放題なエイダは夫に力でねじ伏せられる。しかし、エイダに共感して見ている我々には、その気持ちの移り変わりは至極当然な気持ちの変化に映る。エイダの屈折した湿った偏愛はピアノを棄てた時点で女の強い意思に見えてくる。ピアニストにとって指を切り落とされることは命を奪われたと同じ。だが、口も利けず、ピアノを弾くことすら奪われ、それでもなお憐憫よりも強靭さを感じるのはなぜだろうか。
 残念なのはタイトル。原題も英語タイトルも“The Piano”だったのに、日本にこの映画が来たときは近い作品で邦題が『ザ・ピアノ』というのがあったからという理由だけで変更を余儀なくされ『ピアノ・レッスン』という何とも陳腐な邦題になってしまったことだ。ピアノが彼女そのものではあったけれど、レッスンは愛へと発展した手段に過ぎない。ピアノだけではないレッスンに含みを持たせたエロチシズムな邦題だったのかもしれないが、少しいただけないなと感じた。
 我々も、時として、理性とかモラルを超えた衝動に駆られる時がある。でもそれを貫くと悲劇的な結末を迎えることが多いと思う。けれども、この作品では、それを勇気あることとして賞賛している。肉体に照準を絞る時に、それは媚薬であり、欲求である。モラルをも超えたとき、それは美となり、胸を深くえぐることとなるのではないだろうか。そして、それを赦してしまう観客は罪な生き物である。しかし、ボクはこの映画を観て以来、この映画に勝る愛の表現に映画で出会っていない。

◎作品データ◎
『ピアノ・レッスン』
原題:The Piano/英語タイトル:The Piano
1993年オーストラリア映画/上映時間:2時間1分/配給:フランス映画社
監督・脚本:ジェーン・カンピオン/製作総指揮:アラン・ドパルデュー/製作:ジェーム・チャップマン/撮影:スチュワート・ドワイバラ/音楽:マイケル・ナイマン/衣装:ジャネット・パターソン
出演:ホリー・ハンター,サム・ニール,ハーベイ・カイテル,アンナ・パキン,ケリー・ウォーカー
 
recommend★★★★★★★★★★
favorite   ★★★★★★★★★★