Category: Fantasy


 アイオワ州の田舎町に住む農夫レイ・キンセラは妻と娘の3人は貧乏で平凡だがささやかな幸せの家庭を築いていた。レイは、若い頃父親と口論の末に家を飛び出し、以来生涯に一度も父の顔を見る事も、口をきく事すらもなかった事を心の隅でこうかいしている。ある日レイはトウモロコシ畑を歩いているとふと不思議なお告げを聞く「トウモロコシ畑を潰して野球場にすれば夢が叶う」―その言葉から強い力を感じ取った彼は家族の支持のもと、レイは周囲の反対を押し切って、何かに取り憑かれたように生活の糧であるトウモロコシ畑を切り開き、お告げ通りに行動し、小さな野球場を作り上げる。暫く何も起きなかったが、ある日の晩、娘が夕闇に動く人影を球場にみつける。失意のうちに生涯を終えた偉大な野球選手だった裸足のジョー・ジャクソンたちの霊を見る。ジョーは“ブラックソックス事件”で球界を永久追放され、 “シューレス”ジョー・ジャクソンだった。その日を境に、シューレス・ジョーとともに球界を追放されたシカゴ・ホワイトソックスの8人のメンバーが次々と姿を現わした。その時レイはまたしても「彼の苦痛を癒せ」という幻の声を聞き、彼は1960年代の作家テレンス・マンを訪ねてシカゴヘ向かう。そしてフェンウェイ・パークで野球を観戦中、レイとテレンスは電光掲示板に映ったメッセージを読みとり、今度はムーンライト・グラハムという野球選手を探すことになった。2人はミネソタ州チゾムに彼を訪ねるが、すでにグラハムは亡く、その夜レイはなぜか1960年代のムーンライト・グラハムと出会った。しかしその頃アイオワでは、レイの野球場が人手に渡る危機を迎えようとしていた。アニーからそれを聞いたレイは、マンとともに帰途につくが、道中ひとりの若き野球選手を車に乗せる。実は彼こそが若き日のグラハムだった。アイオワに戻ったレイは、野球場売却を勧めるアニーの兄マークと口論するが、その最中カリンがケガをする。そんなカリンを助けたのが、ドク“ムーンライト"グラハムであった。そしてその時初めて、マークにもこの土地の持つ夢の大きさを知り、売却を撤回した。そしてその夢は、限りない未来への希望で包まれていいた。
 『フィールド・オブ・ドリームス』は、1989年公開のアメリカ映画。W・P・キンセラの小説「シューレス・ジョー」を原作にフィル・アルデン・ロビンソンが監督と脚色を兼任。野球を題材として夢や希望、家族の絆といった、アメリカで讃えられる美徳を描き上げたファンタジー映画だ。撮影はジョン・リンドレイ、音楽はジェームズ・ホーナーが担当。出演はケヴィン・コスナー、エイミー・マディガンほか。特に野球が広く親しまれている国においてヒットし、アメリカでは第62回アカデミー賞で作品賞、脚色賞、作曲賞にノミネートされ、また日本では、第33回ブルーリボン賞や第14回日本アカデミー賞で最優秀外国語作品賞を受賞。全世界で8つのノミネートを受け5つの受賞を果たしたがそのうち4つは日本の映画賞である。日本人向けのノスタルジーを誘う癒される映画だ。映画の撮影は舞台となったアイオワ州北東部、ダビューク西郊の小さな町ダイアーズビルで行われた。劇中に登場する野球場は撮影に際し実際に建造されたもので、撮影終了後も土地の所有者によって保存され、無料で入場することができ、許可を得れば野球の試合をすることもできる。テレンス・マンというって作家、J・D・サリンジャーがモデルという話もある。
 1960年代の熱狂と挫折、その後に続く混乱と倦怠と無関心の日々、政治の横暴と新たな帝国主義、失われていく古き良き時代のアメリカ。しかし、不思議な声を信じて行動するレイの無垢な想いが、断絶したまま死別した父との和解を実現させ、夢破れた人々の心を癒し、古き良き時代のアメリカを蘇らせる。それをアメリカの国技野球を通して、アメリカの原風景ともいえるグレート・プレーリーのトウモロコシ畑を舞台に描いているのが何よりの感動的。そんな1980年代の終わり、何の利益も生まない、ゴーストたちが野球をする球場を守ろうとする主人公とその家族の姿は、アメリカの過去の伝統にもう一度目を向けるよう示唆しているかのようだ。ラスト、死んだ父とレイが2人きりでキャッチボールをする場面も感動だが、その背後で球場に向かうたくさんの車のヘッド・ライトが遥か彼方まで続いているカットこそ真に感動的。

◎作品データ◎
『フィールド・オブ・ドリームス』
原題:Field of Dreams
1989年アメリカ映画/上映時間:1時間47分/東宝東和配給
監督・脚本:フィル・アルデン・ロビンソン/原作:P・W・キンセラ/製作総指揮:ブライアン・E・フランキッシュ/製作:ローレンス・ゴードン, チャールズ・ゴードン/音楽:ジェームズ・ホーナー/撮影:ジョン・リンドレー
出演:ケヴィン・コスナー, エイミー・マディガン, ギャビー・ホフマン, レイ・リオッタ, ジェームズ・アール・ジョーンズ

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★★☆☆☆

 非行少年による暴力が横行する近未来のロンドン。そのころのロンドンは共産主義政権にあり、国民は「時計じかけのオレンジ」のように統制され、管理されている。アレックスは仲間と毎日のように暴力、輪姦、強盗、殺人あらゆる悪事を重ねてきた。ある夜、中年女性を死に至らしめた彼は仲間に裏切られ刑務所行きに。刑期は14年。しかし刑期を待ち続けるのが嫌な彼は2年後、政府が打ち出した、反犯罪性人格の治療法「ルドヴィコ治療」の実験の被験者になることを条件に、社会に戻ることを許される。実験は成功し、はれて自由の身となったアレックスは、ほんのわずかな暴力や大好きな第九にも吐き気を覚えるほどの嫌悪感を強制的に植え付けられた。更正したアレックスを待ち受けていたのは、彼のその特性を利用しようとする反政府の人々であり、彼らは政府を批判しようと、アレックスを自殺に追いこんだ。命は助かったが、アレックスの洗脳は解けてしまう。入院をしていると、この「ルドヴィコ治療」を実施させた政府が、マスコミに非難されたため、和解の証にアレックスの大好きだった第九をプレゼントする。その音の中でアレックスは、より大きな悪に生まれ変わってしまう。
 アンソニー・バージェスの同名小説を映画化した作品。原作者自身が「危険な本」と語っている。アレックスは原作では15歳という設定になっているが、映画ではもう少し年上の学生。アレックスが麻薬入りのミルクを飲むミルクバーでたむろしステレオで心酔するベートーベンの「交響曲第9番」や、レイプシーンに流れる「雨に唄えば」など、音楽による効果的な演出が随所に見られる。その音楽を担当したのはウォルター・カーロスで、シンセサイザーを用いたベートーヴェンの「交響曲第9番」に加工した合唱が加わる斬新なものと、オーケストラの演奏による同曲、エルガーの「威風堂々」、ロッシーニの「泥棒かささぎ」など贅沢にクラシックが使われている。タイトル音楽として使われている楽曲は、ヘンリー・パーセルの「メアリー女王の葬送音楽」。暴力やセックスなど、欲望の限りを尽くす荒廃した自由放任と、管理された全体主義社会とのジレンマを描いた、風刺的な作品。監督スタンリー・キューブリックの大胆さと繊細さによって、人間の持つ非人間性を悪の舞踊劇ともいうべき作品に昇華させている。原作同様、ロシア語と英語のスラングで組み合わされた「ナッドサット言葉」なるものが使用されている。 皮肉の利いた鮮烈な風刺だが、一部には暴力を誘発する作品であるという見解もある。
 1971年に製作された映画だけど、いまだに新鮮さを失わない。この映画に描かれている暴力は変わることのない社会への反動的な抵抗なのだと思う。「ルドヴィコ治療」の、アレックスを椅子に縛りつけ、まぶたにクリップをつけて目をつぶることができない状態にし、けんかや暴力や殺しの映画を見せ続けさせるシーンが実にセンセーショナルだ。犯罪性反射神経を抹殺し、悪人を善人に矯正できると主張する設定。監督は雑誌のインタビューに「結局、人間は地球上に現れた最も冷酷な殺し屋だ。暴力に関するわれわれの関心は、われらが原始時代の先祖と、潜在意識のレヴェルでは少しも変わっていない」と言っている。自分自身で考えることができるという人間の最大の特性である選択の自由は、どんな悪人からであっても決して奪ってはいけない、ということだろうか。当時、この作品を見て犯罪を犯した者がいた。この映画が公開された年、アラバマ州知事ジョージ・ウォレスの暗殺を図り、逮捕された。彼は『時計じかけのオレンジ』を見てずっとウォレスを殺すことを考えていたというのだ。暴力を暴力で風刺したこの作品は、新たな暴力を生んでしまった。しかし、事件連鎖は起こるもので、この映画のせいではない。この時代、この政府によるロボット化が更生には導かれず、自殺に追いやってしまったということが、モチーフだ。う~ん、ボクは賛同も批判もできないが、とにかく戦慄を覚えた。

◎作品データ◎
『時計じかけのオレンジ』
原題:Clockwork Orange
1971年イギリス映画/上映時間:2時間17分/ワーナーブラザーズ映画配給
監督・脚本・製作:スタンリー・キューブリック/原作:アンソニー・バージェス/音楽:ウォルター・カーロス/撮影:ジョン・オルコット
出演:マルコム・マクダウェル, パトリック・マギー, マイケル・ベイツ, アドリエンヌ・コリ, ウォーレン・クラーク

recommend★★★★★★★☆☆☆
favorite     ★★★★★★☆☆☆☆

edward scissorhands  2 

 丘の上の城の様な屋敷に年老いた発明家が住んでいた。彼はたったひとりで人造人間のエドワードを作ってたが完成間近に急死してしまう。エドワードはハサミの手のまま取り残されてしまった。化粧品のセールスで訪れていたペグによって発見された彼は町に連れてこられる。初めのうちは器用にハサミの手で植え木を切ったり、髪型を変えたりして物珍しがられるが、ハサミの手で次々と人の体や心を傷つけてゆくエドワードは町にいられなくなってしまう。ペグの娘キムに恋をするが、キムの恋人を不意に殺してしまう。彼は二度と町の人々の前に姿を現すことはなかった。
 監督は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のティム・バートン。この『シザーハンズ』は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』と並んで最高傑作として賞賛されている。撮影も優れている。町を遠景で見せたり、厳かな城の全貌、雪を降らせるシーンは美しさの極みだ。そして何といってもこの映画にコミカルでハートウォーミングな印象を添えているのは俳優陣の演技。感情のなさそうで切なそうなエドワードを演じるジョニー・デップはセリフ少ない中で表情で名演をする。ずっとティム・バートンと組んで作品を作っているジョニー・デップだが、彼の代表的な作品になっていると思う。少なくともボクはいちばん好きだ。彼を町に連れてきたペグを演じるダイアン・ウィーストもやさしいおばさんぽい少し間の抜けた感じを醸し出していて優しさ溢れる作品の印象に一役買っている。あと、このことはまだ薬物中毒も高飛車な印象もかけらもないウィノナ・ライダーが可愛らしくていい。『ビートル・ジュース』でおかしな少女を演じて印象を残した彼女はずいぶんきれいなアイドルっぽい外見になり、ピュアな恋愛を誇張させている。この映画で実際にも恋に落ちたふたりはジョニー・デップが腕に「ウィノナ命」とタトゥーを入れるなどしたうえ、綴りを間違えて彫ってしまうなどおばかな話題には事欠かなかった。しかし、この映画は小作品として軽視されメイクアップや視覚効果も含め賞ものには一切無視されてしまった。残念だ。
 冒頭の20世紀フォックスの画像に雪が降っていて、最初からピュアな印象を想像させる。実際、この雪は、この物語に大事な伏線となっている。ラスト、年老いたキムが子供を寝かせつけるために語る物語の中で、子供から「エドワードは生きているの?」と訊かれ、「きっとね。なぜならエドワードがはじめてここに来るまで雪の降らない町だったの。でもそれ以来毎年雪が降るわ。それはきっとエドワードが降らせていると思うの」と答えるシーンがある。とてもきれいな言い回し、そしてきれいなエンディングだ。
 小さな作品とはいえ、興味惹かれる部分は多分にある。キムが「抱きしめて」と言ったときハサミの手では「出来ない…」としか言えない彼の虚しさ、抱きしめたいのにできない切なさは痛いほど伝わる。ハサミの手では触れるだけで傷つけてしまう。キムの弟を助けるシーンでも傷つけてしまう。キムの恋人をちょっと振り払っただけでも傷つけてしまう。自分は愛を表現したくても傷つけることしかできない辛さがとても痛い。人を傷つけるたびに彼の心も傷ついているのに。人造人間にこんなピュアな心を持たせ、しかも完成前に死んでしまった博士は罪深い人だ。彼が生きていれば、実に幸せなエドワードの人生なった気がするし、けれど、町に降りて初めて人間的な自分を発見したともいえる。そして人というものは珍しいうちは興味を持ってもたはやすが、ひとたび面倒が起きるとフリークスとして突き放してしまうエゴイストな動物であることも語っている。
 下手をすれば、カルトムービーになってしまうところだが、エドワードの孤独な魂に終始徹底し拘ったせいで美しいメルヘンに昇華させてある。あり得ない設定、奇想天外な発想はコメディであり、ラブストーリーであり、人間ドラマであり、ファンタジーである。どのジャンルに入れるか迷った。奥深さはないが実に心温まる優しい、個人的に大好きな作品になった。何度観ても、ハートウォームな心地よさがある。

 
 ◎作品データ◎
『シザーハンズ』
原題:Edward Scissorhands
1990年アメリカ映画/上映時間:1時間38分/20世紀フォックス配給
監督:ティム・バートン/原案:ティム・バートン, キャロライン・トンプソン/脚本:キャロライン・トンプソン/製作総指揮:リチャード・ハシモト/製作:デニーズ・ディ・ノービ, ティム・バートン/音楽:ダニー・エルフマン/撮影:ステファン・チャプスキー/特殊メイク:スタン・ウィンストン
出演:ジョニー・デップ, ウィノナ・ライダー, ダイアン・ウィースト, アンソニー・マイケル・ホール, アラン・アーキン
 
recommend★★★★★★★★☆☆
favorite     ★★★★★★★★☆☆