★ネタバレ注意★ストーリーあらすじすべて、結末にも触れているので観る予定のある方は注意してください

 舞台はカナダ、ケベック州。モントリオールで国語の教師をしているロランスとフレッドはおしゃれでとてもお似合いのカップル。しかし、ロランスはずっと自分の体に違和感を覚えていた。そして遂に、35歳の誕生日、フレッドに、自分はトランスジェンダー(性同一性障害)だと告白する。ロランスの告白にフレッドは激高するも、いちばんの理解者になることを決める。母親のジュリエンヌ(ナタリー・バイ)は達観の境地だ。しかし、周囲の偏見と冷淡な視線にさらされ、次第にふたりのあいだにも避けがたい葛藤と亀裂が広がり出す。女として生きていきたいと願ったロランスはスカートを身につけ、ストッキングとヒールをはいて学校へ行く。しかし学校の反応は求めていたものとは違った。ロランスは学校から解雇を言い渡される。教えることに情熱をかけるロランスは学校関係者に懇願するが認めてもらえない。偏見の固まりである、ある人物は「文章が書けるのだから、自身のことを小説にしたら?」と言う。落ち込むロランスを支えたのはもちろん恋人のフレッドだった。しかし、フレッドも限界だった。感情を顕にし、精神的にも不安定になる。やがて、ふたりには破局が訪れ、フレッドは結婚し子供を儲ける。ロランスは、文章を書くことに執着し、後に詩を書き成功を収める、若い女性と同棲する。フレッドを失った悲しみはいつも胸の奥底にあった。やがてその詩集はフレッドに贈られ、フレッドはロランスと再会することになる。ところが、喜びもつかの間、やはりふたりの溝は埋められなかった。話し合っても己の気持ちを押し付けるだけで最後はケンカになる。迷いや戸惑い、周囲の反対を乗り越えて、社会の偏見に遭いながら、ふたりはそれぞれの人生を歩むのだった。
 24歳にして長編映画を撮り上げたカナダ人監督グザヴィエ・ドランの3作品目。噂によると監督自身はゲイであるらしい。トランスジェンダーではないがある意味作品は全部自伝的な部分があると言っている。公開にあたり、漫画家のやまだないと氏が描き下ろしイラストとコメントを寄せているほか、各界のクリエイターが今作についてメッセージを寄せている。 本作は、昨年のカンヌ国際映画祭ある視点部門に正式出品され、高い評価を得、フレッドを演じたスザンヌ・クレマンは最優秀女優賞を受賞している。トロント国際映画祭では最優秀カナダ映画賞受賞を受賞した。ドラン監督に惚れ込んだガス・ヴァン・サント監督が全米公開時のプロデューサーを務めているのも話題。、監督・脚本・美術・衣装・編集・音楽をひとりでこなしているところも彼ならではの才気だと思う。主人公のロランスに『ぼくを葬る(おくる)』のメルヴィル・プポー、フレッドにスザンヌ・クレマン、ロランスの母親ジュリエンヌに『勝手に逃げろ/人生』『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のナタリー・バイ、フレッドの妹にモニカ・ショクリ、フレッドの母親にソフィー・フォシェ、ジャーナリストにスーザン・アームグレンが扮している。
 169分という長丁場を、まばたきするのも惜しいほどの映像美で魅せてくれた本作品は、80年代90年代のファッション、カルチャー、音楽をふんだんに取り入れている。ザ・キュアー、デュランデュラン、デペッシュモード、ヴィサージ、ザ・ブルーナイル、などなど、ニューウェイブからオルタナティヴロックまで、グッとくるラインナップが散りばめられている。ロランス目線のショットの多用と、揺れ動き、ときには疾走するカメラワークは時に冗漫なシーンも飽きさせない。暴発寸前のふたりの痛ましいほどの感情の軋みをそのまま体現しているかのように感じさせるカメラワークだった。突然、ベートーベンが鳴り響き、居間のソファーの上に豪雨が降り注ぐかと思えば、空からカラフルな衣服が落ちてくる意表を突くシーンも、スタイリッシュで、奇をてらったものではなく、周到で綿密に計算された華麗なオペラ演出を見ているような感覚が残る。監督の手腕は誠実であり、緻密だった。
 前評判が高く、たくさんの方から奨められて観てみて、まずは音楽・映像・ファッションのスタイリッシュさに一気に引き込まれていった。ただそのスタイリッシュさはこの主人公のようなライフスタイルを表現するのに必要な要素という意味で、ストーリー全体から言えば、スタイリッシュというより官能美かも知れない。結局は壮大なラブストリーだ。しかし、ラブストーリーでありながら、「愛」の定義がややこしい。ストーリーの紹介部分でボクは「自分はトランスジェンダー(性同一性障害)だと告白する」と書いた。しかし、ロランスはひとことも、「トランスジェンダー」とも「性同一性障害」とも言っていない、ただ「自分は女だから女になりたい」と言っていただけだ。女性の服装も着るし化粧もする。でもフレッドが用意したカツラは決して被らない。カツラはロランスにとっての他人のごまかす嘘の表現に過ぎず、自分の中での女らしさの表現ではない。そのうえ、ロランスがパートナーに選ぶのはいつも女性。漫画家のやまだないと氏がこの映画を「おとこにうまれたから、おんなのひとを愛するんだろうか。おんなにうまれたから、おとこのひとを愛するんだろうか」と評した。素朴な疑問だが、セクシュアルマイノリティの当事者以外の人は、このあたりで混乱が始まるのだろう。ボクも同性愛者ではあるがトランスではないのでわかる部分とわかりにくい部分がある。性転換者が転換後の性のひとをパートナーの対象に選ぶというのはざらにある。男性から女性へのトランスジェンダーで女性になってレズビアンになったの、と説明するひともいる。性の多様性が社会に受け入れられていれば問題はない。ただ、ロランスは見てくれの表現は女性にこだわったけれど、恋愛対象においては性という壁カテゴリーを超えてしまったのだと思う。カテゴライズから抜け出てしまった。何度かの再会のうち、最後にロランスとフレッドはお互いにまだ愛し合っていることを確認し合うが、フレッドはロランスに「地上に戻ってきてよ」と言う。ロランスはこう答えた。「地上に? せっかくここまで・・・」と。愛し合っていても時空を共有できないから、一緒にいられないのだ。しかし、フレッドは違った。再会して抱き合うシーンでもフレッドの胸と局部を確認した。最後のふたりのシーンの後、ラスト、シーンは出会いに遡る。フレッドに声をかけてきた男らしい男性が名前を「ロランス・アリア」と名乗る。そこで、フレッドは満面の笑みを浮かべる。フレッドは明らかに男であるロランスを求めていたのだ。フレッドの場合、告白の時点で破局するべきだっと思う。ロランスは最初は男だったからフレッドを好きになったのかもしれないが、自分がどうしても女になりたいのと、フレッドを愛する理由は「男」でなければいけない理由はひとつもない。
 またこの映画に写真家の大橋仁氏が「誰もが各々の出方を伺いながら生き形作られる世の中、黙ってひっそりと他人に迷惑をかけない人生を送る事が調和だと誰もが言い聞かせ合っている。そんなものは調和ではない、鎖だ。牽制し合う鎖つきの調和などいらない、ぶつかり合う調和が欲しい。この映画を見てそう思った」と寄せた。まさにこの映画はぶつかり合いながら調和しようとしていた。このふたりはぶつかり合いながら「愛」を貫き通そうとした。ふたりの見ているそれぞれの「愛」の貌は違うのに「愛」への強烈な想いだけが重なり合っていた。愛する思いが強すぎるために貪欲に見返りを求めてしまう。そんなふたりの不器用な生き方はとても人間的で哀しい。
 この映画を観てかなり胸が苦しくなった。いい映画だと強く感じたが、セクシュアルマイノリティ当事者のボクが観ると、自分をさらけ出すことはこうしてひとつの騒ぎを起こしまわりのひとを巻き込み不幸にする可能性が高く、ひとに何か難儀なものを強制的にさせることになるのだということを痛感してしまうからだ。他者の目を介して困難に直面するなかで、他者への愛と自分自身への愛。どちらも損なわずに生きていくことは果たして可能なのかという問いに直面し、葛藤する。葛藤の描写がこの映画の非凡さだと思う。葛藤は、もの哀しげなのにどこか幸せ、耽美として観る側に印象を与えていく。

◎作品データ◎
『わたしはロランス』
原題:Laurence Anyways
2012年カナダ・フランス合作映画/上映時間:2時間48分/アップリンク配給
監督・脚本:グザヴィエ・ドラン/製作:リズ・ラフォンティーヌ/音楽:ノイア/撮影:イヴ・ベランジェ
出演:メルヴィル・プポー, ナタリー・バイ, スザンヌ・クレマン, モニカ・ショクリ, スージー・アームグレン

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