1993年7月。翔子とカナオの夫婦の部屋のカレンダーには×印がつけられている。妻が決めた週に3回の夫婦の「する日」。その日に限って、靴修理屋で働く夫の帰宅は遅い。女にだらしないカナオが遊び歩いているのではないかと、彼の手の甲をぺろりと舐め、浮気かどうかチェックする翔子。カナオは先輩の紹介で、新しく法廷画家の仕事を引き受けてきた。苛立った様子で寝室へ消える翔子。カナオは、渋々寝室へ入っていく。ふたりはどこにでもいるような夫婦。翔子は女性編集者として小さな出版社でバリバリ働き、カナオは法廷画家の仕事に戸惑いながらも次第に要領を掴んでいく。職を転々とするカナオを、翔子の母や、兄夫婦は好ましく思っていなかった。将来に不安を感じながら、小さな命を宿した翔子には喜びのほうが大きかった。夜道を歩くふたりの後姿には、幸せがあふれていた。1994年2月。カレンダーから×印が消えていた。寝室の隅には子どもの位牌と飴玉が置かれていた。初めての子どもを亡くした悲しみから、翔子は少しずつ心を病んでいく。一方、法廷でカナオはさまざまな事件を目撃していた。1995年7月、地下鉄毒ガス事件の初公判。翔子の方はひとりで決めて産婦人科で中絶手術を受ける。カナオにも秘密。しかし、その罪悪感が翔子をさらに追い詰めていった。1997年10月、翔子は仕事を辞め、心療内科に通院している。台風のある日、カナオが家へ急ぐと風雨が吹きこむ真っ暗な部屋で、翔子はびしょ濡れになってたたずんでいた。子どもをダメにした罪悪感から翔子は取り乱し、カナオを泣きながら何度も強く殴りつける。そんな彼女をカナオはやさしく抱きとめる。ふたりの間に固まっていた空気が溶け出していった。
 前作『ハッシュ!』が2002年カンヌ国際映画祭ほか数々の映画賞受賞と52ヶ国を超える世界公開で話題となった橋口亮輔監督。6年の歳月を経て辿り着いた脚本は、自身が『ハッシュ!』以降に経験したさまざまな出来事をもとに書かれている。人間の悪意が次々と露呈していった9・11以降の世界、うつになり闘った苦悩の日々。日本社会が大きく変質したバブル崩壊後の90年代初頭に立ち返り、自らの人生と世界を重ね合わせた。人はどうすれば希望を持てるのか、彼が出した答えは、希望は人と人との間にあるということだった。ささやかな日常の中にある希望の光を、ワンシーンごとを丁寧な演出で浮き上がらせる。6年ぶりの復活は、いとおしさにあふれた名作映画という形になった。映画は高崎映画祭、毎日映画コンクール日本映画優秀賞で作品賞、山路ふみ子映画賞で山路ふみ子映画賞、報知映画賞で監督賞、毎日映画コンクールで脚本賞、翔子を演じた木村多江は高崎映画祭、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞、日本インターネット映画大賞、東京スポーツ映画大賞で主演女優賞、カナオを演じたリリー・フランキーは、ブルーリボン賞、日本映画批評家大賞で新人俳優賞を受賞している。『おくりびと』一色の賞レースに一矢報いた感じだ。
 『ぐるりのこと。』の舞台となるのは、1993年から9・11テロに至るまでの10年間。翔子とカナオの再生のドラマを描きだす一方で、その社会的背景にも焦点を置く。カナオが法廷で目撃するのは、1990年代から2000年初めにかけて起きた実際の事件、そして犯罪者。連続幼女誘拐殺人事件、地下鉄サリン事件など、社会のネガティブな側面にも着目する。加瀬亮、新井浩文、片岡礼子らが登場する当時の事件を反映した法廷シーンも、リアル。倍賞美津子、柄本明、寺田農、寺島進、安藤玉恵、八嶋智人らが脇を固め個性的な演技を見せている。時代と家族それがすべて翔子の「ぐるり」だ。この映画では、そういった近くから世界までの周囲の取り巻きを「ぐるり」という言葉で表現している。その翔子をとりまく「ぐるり」を全面に受けて、精神のバランスを崩していく。ひとつずつ一緒に乗り越えていくふたりの10年にわたる足跡を、監督は、どこまでもやさしく、風刺を交えながら感動的に描きだす。人はひとりでは無力だ。しかし、誰かとつながることで希望を持てる。決して離れることのないふたりの絆を通じて、そんな希望の存在を浮き彫りにする。多分、ボクは、見なければならなかった作品だ。

◎作品データ◎
『ぐるりのこと。』
2008年日本映画/上映時間:2時間20分/ビターズエンド配給
監督・原作・脚本:橋口亮輔/製作総指揮:渡辺栄二/製作:山上徹二郎, 大和田廣樹, 定井勇二, 久松猛朗, 宮下昌幸, 安永義郎/音楽:Akeboshi/撮影:上野彰吾
出演:木村多江, リリー・フランキー, 倍賞美津子, 寺島進, 安藤玉恵

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